Photo: Henning Ross/Sony Music Entertainment

鏡のこちら、そしてあちら側。最後に残るのは?

 アレクサンダー・クリッヒェルが放った新しい驚きはラヴェル。89年ハンブルク生まれのピアニストだが、母はバレルモ出身のイタリア人、両親ともに理系で、彼自身も数学、物理学、生物学、言語など多岐にわたる関心と才能をもちながら、「答えの出ない」音楽の道に進んだ。師事したのはクライネフやアレクセーエフらロシアのピアニストばかりである。

ALEXANDER KRICHEL 夜のガスパール~ラヴェル:ピアノ作品集 Sony Classical(2017)

 新作は《鏡》と題して、《クープランの墓》と《夜のガスパール》の間に、表題曲を鏡面のように置く3部構成。「ラヴェルは謎めいていて、伝記を読んでも人物像が捉えにくい。彼は感情と知性の両面をフル稼働させていた。《夜のガスパール》は悪夢が脅かす、非常に感情的な音楽です。《鏡》では非常に知性的に、自然の音を見出そうとしている。また、《クープランの墓》は輝かしい面、《ガスパール》は彼という人間のダークサイドを表しています。だから3作を一枚にまとめて、ラヴェルの両義的な性格を表したかった」。

 もちろん光輝のうちにも暗部はある。「《クープランの墓》は、バロックの作曲家への捧げものであり、戦死した友人へのオマージュでもある。死を扱いながら、音楽は明るく輝かしい。死の暗い淵にいるのに、それ以上音楽で悲しくする必要があるでしょうか? 私もこれまでいくつもの死に直面してきました。5年間学んだ師であり、父のような存在だったクライネフも、ラフマニノフの協奏曲第2番をいっしょに弾いて、その数時間後に亡くなってしまった。死という喪失の悲しみに沈むか、それとも人生で知遇を得たことを大事にするか。死にはポジティヴな捉えかたもある。この知性の働きこそ、《墓》から私的に学んだことです」。

 練習過程では知性的に、舞台では感情に徹するとクリッヒェルは言う。「ラヴェルは確かに数学的なゲームを好みますが、細部だけでは全体像は捉えられない。印象派の絵画も点描を間近にするのではなく、引いてみることで全体像がわかってくる。作品を精密にみていくいっぽうで、舞台上ではもうそのことを考えない。心が感じるままに弾くのです」。

 細部と全体の関係は、本盤を聴くときにも当てはまる。「《墓》、《鏡》、《ガスパール》と進み、光から暗黒の世界へと潜っていく。『鏡』は光と闇の両面を映し出す。蛾、鳥、大洋、故郷への旅でもある。3曲を通して聴くと、ラヴェルがどのような人間かわかります。どの領域でも強烈で、そして理解できるような人間ではないことがわかる。“スカルボ”は最後に消失します。すべての旅の終わりに、結果として残されるのは〈?〉。まさしく人生そのもので、どれほどの経験をしてきても、次になにが起こるかはわからないのです」。