私のエモーションを直撃するのは数学ではなくピアノでした!

 1989年ハンブルク生まれのアレクサンダー・クリッヒェルを単に、「ドイツのピアニスト」と呼ぶには抵抗がある。母親はシチリアのイタリア人、ピアノの恩師はハノーファー音楽演劇大学の故ヴラディーミル・クライネフ、ロンドン王立音楽院のドミトリー・アレクセーエフとモスクワ楽派の巨匠。英リーズ国際ピアノコンクールをはじめ、早くから「西側」で認められたロシアの名手2人の愛弟子なのだ。

 「クライネフ先生が亡くなった時点で自分にはまだ研鑽が必要と考え、時間をかけてたどり着いたのがアレクセーエフ先生。『私は第二のクライネフじゃないよ』と釘をさされた(笑)。豊かな響きが雲のようにホールへ広がり、強靭なフォルテだけでなく、芯の通ったピアニシモが最後の列まで届くロシアのピアニズムは偉大だ。さらに歴史を遡ってショパンに行き着く奏法の習得にとどまらず、豊富な演奏経験で培われた賢者の知恵に触れることで今後何十年、自分がピアニストとして生きて行く土台をつくりたい」

 今はピアノの道まっしぐらだが、かつては奨学金を得てハンブルク大学の聴講生となった数学の天才児でもあった。「数学を専門に学ぶことはやめた。人の心に直接かかわる領域としては数学より医学に関心が向かい、アビトゥーア(大学入学資格試験)の前は医師かピアニストかの進路選択に迷った。最後は、自身のエモーションにより深く訴える音楽家が最も素晴らしいと確信した。ほとんどが医者かエンジニアの家系で、妹は経営心理学専攻。舞台でピアノを弾いている間は徹底してエモーションの世界に身を委ねるが、自宅で静かに新しい楽曲を学んだり、解釈を考えたりする場面では数学的思考が役に立つ」と自己分析する。

 最初に別レーベルでリストのCDを1枚出した後、大手化学資本バイエルの文化財団の支援が決まり、ドイツのソニーミュージックで3年間に3枚のアルバム(ショパンとフンメルモーツァルトの協奏曲集、ドイツ・ロマン派名曲集、ラフマニノフの協奏曲第2番と「楽興の時」)を制作した。バイエルの企画で小学校低学年から中学生までの子どもたちの学校へ出向き、クラシック音楽の普及プログラムにも取り組んでいる。「ロマン派名曲集にも収めたドイツ歌曲のピアノ編曲を主に弾き、元のテキストが描く物語を説明しながら、自然に興味を持ってもらえるよう工夫する」という。ドイツ全般のクラシック音楽離れにも心を痛めるが、「音楽以外の勉強を通じて知り合った友人知人を粘り強く自分のコンサートへ招き、『気に入ったら誰か友人を連れてきてよ』と頼む。積み重ねれば、かなりの動員になるはずだよ」と、楽観もする。