没後50年、アイラーはどう聞こえてくるのか
アルバート・アイラーが三島由紀夫と同じ70年11月25日に亡くなってから50年余が経過した。このように書き始めるだけで、この偶然による(むしろ、たんなる偶然でしかない)事実が帯びてしまう象徴性は、たとえばあるミュージシャンが、どうしようもなくその生きた時代や同時代の文化事象と分かちがたく結びついてしまう、ということを強化するものでもあるだろう。それは、ある人たちにとって、ひとつの時代の終わりを象徴する出来事となって記憶される。そして、アイラーは、60年代という時代とフリー・ジャズという運動を背負った不世出のミュージシャンという伝説の中に生きることになった。こと日本の同時代におけるフリー・ジャズの受容は、より日本的風土と結びつき、どこか特殊なイメージを作り上げてしまったこともたしかだろう(それもまたひとつの文化現象ではあるのだが)。
しかし、多くのすぐれたミュージシャンがそうであるように、そうした状況の中で作られたイメージよりも、アルバート・アイラーというミュージシャンの潜在可能性は大きなものであるはずだ。それによって「もし、アイラーがその後も音楽を続けていたとしたら」、という想像力が喚起され、60年代当時から継承分化して変化を経た現在の音楽状況からアイラーを逆照射することで、さまざまな可能性としてのアイラー像が描かれうる。もちろん、あらゆる仮説を立証する術はあらかじめ失われているのであり、ゆえに同時代に活動したミュージシャンの70年代以降の展開との対比などによって、より自由に、その音楽を奏で始めるだろう。
本書は、生前の記事から、アイラーの実像を提示し、当時の現地、そして日本での受容、音楽的背景、没後の影響の検証、現在からの捉え直し、政治性や、サンプリング・ソースとしての検証、周辺分野との関係やその影響など、アイラーを多角的に捉え直し、ディスコグラフィーやジャケットのヴァリエーション検証などの資料的側面も充実した、編者の記すとおり、アイラーの音楽を通して〈現在の視点から多角的に検証/考察〉するものである。ある意味では、自身が活動していた時代に幽閉されたアイラーの存在を解放し、現在から未来へと、音楽から私たちへと、そして社会へと、どのように開いていくのかを問うものだろう。それは私たちの生きるための実践の書物であることが宣言されている。
個人的には、『ニューヨーク・アイ・アンド・イヤー・コントロール』についての論考が読めたのはうれしい。よく聞くアルバムは『ニュー・グラス』、というのは邪道なのかと思っていたが、本書を読んで少し安心した。