映画誕生100年目に登場し21世紀初頭を駆け抜けた映画作家を悼む

 最後にお目にかかったのは2020年1月9日、場所は今池の得三だったようだ。日記をつける習慣もない私がなぜ場所も日づけもわかるかといえば、この日が所属するバンドのツアーだったから。もっともひさしぶりの名古屋遠征だというのに、かならずしもオオバコとはいいえない得三の客席には本格的なコロナ禍の到来を予期するかのようにおそるべきソーシャルディスタンスが生じていた、会場に青山監督はプロデューサーの仙頭武則氏とともに来場し演奏をご覧になったあとシングル盤まで購入された。私はその日の青山さんの所感をさきごろ刊行した「宝ヶ池の沈まぬ亀 ある映画作家の日記2016-2020」(boid)にみつけ、ああと嘆息をもらしたのは、訃報にふれ喪失感にさいなまれていたせいもあるが、それ以上にその文面から舞台にかけてまもない新曲をふくむ、破綻やノイズまみれの演奏の巧拙ともおそらく無関係の音の響きのゆたかさのようなものをひきだそうとしているのがひしひしと伝わったのである。

 考えてみれば、青山真治ほど音を深く聴きとる映画作家はいない。80年代には自身もバンド活動をしていただけあって音への感覚は尋常ではなく、それらは私たちにとっての映画がトーキーであることをまざまざと自覚させるとともに、マニアをうならせる記号を作品にひそませもした。音楽評論家間章を題材に批評と時代性を7時間以上におよぶ音とことばの織物に編みあげた2006年の「AA」や、レコメンの領袖クリス・カトラーを追った「June 12, 1998 -カオスの緑-」(1999年)などのドキュメンタリー作品はこの映画作家の偏愛の遍歴をうきぼりにするが、劇映画にも、浅野忠信と中原昌也が作中でミュージシャンを演じる2005年の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」――後半のギター演奏シーンはカトラーのフィルムと相関関係にある――など音楽的な符牒にことかかない。そもそも1996年の「Helpless」からして敬愛するニール・ヤングのCSN&Y時代の楽曲の表題を借り受けたのかと思いきや、邦題を「俺たちの明日」という映画「Reckless」がもとになっていると、私は編集に携わったニール・ヤングのムック本に原稿をいただくまではずかしながらぞんじあげなかった。初見は公開時で、Blu-rayはおろかDVDももたないころにビデオを買ったのにみあたらないのでおぼつかない記憶をたよりに書くが、その「Helpless」で浅野忠信演じる健次はニルヴァーナの『Nevermind』のTシャツを着ていたはずである。作中の時間設定は89年なので91年の『Nevermind』とはズレがあるが、のちにガス・ヴァン・サントがその最後の数日をおった人物を核とするトリオが89年時点ですでに存在したことのほうにもっとずっと重いものがある。

 それにより1989年は昭和と平成の切断線であるとともに1990年代という十年紀の起点となった。青山真治は阪神淡路大震災とオウム事件以降に本格的に活動を開始したがデビュー作の舞台をディケイドの起点に据えたことで90年代日本映画を象徴するひとりとなった。私は書き漏らしたが「Helpless」は長編デビューではあっても処女作ではない。その一年前すでにVシネで「教科書にないッ!」を手がけている。当時青山は黒沢清の助監督について数年目で、さらに大元をたどれば、生まれ故郷の北九州の港町門司を後に立教大の門をくぐった84年に映画作家への最初の一歩をみいだすことができる。そこから二十代の十年をかけて青山は黒沢清をはじめ、万田邦敏、塩田明彦らの同窓の先達の系譜に連なり、同時期同校で開講していた蓮實重彥の講座で方法的思考の薫陶を受けた。〈師匠〉と呼んではばからない蓮實、黒沢両氏の影響下で活動を開始した青山にとって映画とは、ヌーヴェルヴァーグはいうによばず近代芸術の帰結として実作と批評の両面からなる形式だったはずだが、ここでいう形式とはおそらく統覚的な均衡というよりは緊張をはらんだ拮抗だった。撮影の技術や技法などの原理的な側面、ジャンルや様式など映画史の文脈、シナリオないしは物語といった映画なる形式の構成要件をあらかじめ自明のものとしない拮抗の痕跡は「Helpless」以降、四半世紀、長編だけでも十数本にわたるフィルモグラフィのあらゆる場所に花束のようにみとめられる。