〈いかにあるべきか〉と〈どうあり得るか〉の間に、人間を開いていくこと。

 新しいアルバムを創ることは、そのたびに新しいスーツケースをもって旅に出るようなもの。ジャン=ギアン・ケラスは以前そんなふうに言っていた。彼の弾くチェロとおなじように、その人もまた、いつもスマートで身軽にみえる。

 それにしても、彼はずいぶん遠くまで旅をしてきた。地理的にも、空間的にも、時代的にも。外向的にも、内面の旅においても。荷物が決して重たくならず、必要なものがいつもすっと引き出されるのが、ケラスの鮮やかなお手並みだ。存分の驚きとともに、変化を好む構えがあるのは、生来の好奇心と、おそらくは自信ゆえ。どこへ行っても彼は彼で、しかもたちまち周囲を旅の仲間に変えてしまう。

 昨年12月にバッハの無伴奏チェロ組曲全曲演奏を含むソロ・ツアーで3年ぶりに日本を訪れたジャン=ギアン・ケラスが、この7月にも来日した。鈴木優人が指揮する読売日本交響楽団とバンジャマン・アタイールのチェロ協奏曲“アル・イシャー”の日本初演を控えた日の昼、今回のインタヴューがもたれた。

 昨冬のバッハ全曲演奏を聴いて、その自在な表現と即興的な奥行きに私は驚嘆した。とかくバランス感覚に優れた利発なケラスが、このときは自らを不安底に晒すようにして、儚くも脆い微細な揺らぎを体現していたからだ。それも、フラジャイルな表現を採るというのではなく、彼の人間理解と即興的な感性が自ずとそちらへ向かうように。即興の自由というものは彼の内面で、どのように深化しているのだろう?

 「それは質問の範疇を超えて、開かれた主題でもありますね。人間やホモ・サピエンスである存在理由にも関わってくる。この種であることは多くの問題を抱えていますが、私たちのもっとも素晴らしい側面は芸術を創造することだと思います。そして、芸術が真に意味を成すためには、それを創り出す人間がどの分野であれ、私たちという全体性に向かって果敢に自分を開いていかなくてはならない。

 いまフラジリティーや傷つきやすさという側面に言及して対話を始めてくれたのがとてもうれしいのですが、それは人間という種がもつ大きな性質です。私はそれを芸術の内に持ち込まなくてはなりません、演奏において自分自身を危険に晒す領域にまで。演奏会のどの瞬間にも真にオープンでなければいけないし、作曲家が示し、その音楽の言語則が与えるものを十全に受けとり、そのうえで最終的には演奏に生命を吹き込まなくてはならない。

 自由の領域は、つねにその作品の言語に繋がっているもので、だからこそ即興というものが意味を成すのだと思います。おそらく、私が近年即興演奏の経験を積んできたことも、私が習得した領分や安全圏から外に出る一助になっているのでしょう。

 人生というもののメタファーとして言いますが、私は先達の伝統を継承したいし、またそのように存在している。私たちは途上にあり、このようにあるのはどこからやってきたかによって多くが決定づけられています。

 しかしまた、私たちは人間ですから、この瞬間にどのようにあるかということの意味を探し求める者でもある。この点で、私は肯定的な意味での軋轢を見出します、〈いかにあるべきか〉ということと〈どうあり得るか〉ということの間に。演奏においても、そこが真に興味深い領域だと私は思っています」

 近くは2019年5月、東京芸術劇場での、ローザスの「我ら人生のただ中にあって」の舞台で、6つの組曲を文字通り演じるのも聴いたが、ケラスのバッハはそのときからも大きく変容していた。彼も言うように、シェミラーニ兄弟らとのトラキア民俗音楽『Thrace』、ラファエル・アンベールらとの即興演奏『Invisible Stream』の冒険も影響したのだろうが、今回のバッハ演奏に関しては、アレクサンドル・タローのモダン・ピアノと取り組んだマラン・マレのヴィオール作品探求を経て、光と影の微妙な色合いを含みつつ、表現の自由はさらに強まったのではないか。

 「マラン・マレのフランス・バロックは、二重の意味で実に興味深いものでした。それは〈書かれた即興〉であり、マレは膨大な装飾音を楽譜に書き留めています。しかし、紙上に書かれているとはいえ、あくまで装飾音として扱い、それらを飛び立たせなくてはなりません。私たちが曲を演奏したいと思うのは、そこにいま生命をもたらしたいからですし、コンサートを聴くというのはその生命と関わることです。

 響きのことを言えば、最弱音と静寂の限界を探ることに私はいつも魅了されてきました。だから、リゲティや、今日演奏するアタイールの音楽が大好きなのです。際限のない微弱音は、どこから音が始まっているのかもわからない。だからこそ永遠を感じさせる。静寂というのは永遠だからです。

 私はつねにこの種のことに情熱を抱いてきましたが、しかしあなたがおっしゃるように、おそらくタイミングやダイナミクスを〈創り出す〉のではなく、私は以前よりもそれをもっと〈体験する〉ようになっているのかもしれません」

 

 ひとつ逸話をお聞かせしましょう、とケラスは言って、ニューヨークで2019年にバッハの組曲演奏会を行い、尊敬する師のティモシー・エディが聴きにきてくれたときの話を続けた。

 「その日の演奏でも、即興の瞬間をたくさん生み出し、自分が非常に自由だと感じていました。かつての師は厳格な人ですから、〈少し自由すぎたでしょうか、行き過ぎでしたか?〉と私は言いました。〈まったくそんなことはない。俳優が完全に役に入り込むとき、自由に制限はない。それはその役柄が冒す自由であり、人物にまったき生命を吹き込むものだから〉と彼は言ってくれた。〈演奏している作品そのものになりきるときに、きみが感じることは、バッハがそこで考えたハーモニーを感じるように、その音楽を経験することなのだと。バッハの宇宙を完全に受け容れることは、そのように自分がそれを経験することだ〉と。この考えは、私にはとても啓発的なものでした」

 2019年と言えば、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのダンス・カンパニー、ローザスとともに舞台を創り上げて以後のことである。ケースマイケルは殊に対位法的な構成を好む振付家だが、それでもケラス自身とバッハの対話と合一のほかに、他者の肉体が同じステージで踊っているのは不思議な感覚を帯びる体験ではなかったろうか。

 「2017年に通し稽古を始めた当初は、少々不安に思いました。しかし、徐々にそれを受け容れ、ありがたく思うようになった。私は揺さぶられることが好きなのですよ、そうしてまったく新しい光に爆さらされ、安全な領域を出ることが。

 アンヌ・テレサはまず〈この音楽はあなたにとってどのような意味があるのか、どのようにこの音楽が作曲され、どのように作品に反応して生命を吹き込んでいくのか〉と私にたずね、それをベースに作品を創っていく。だから、ダンス全体が、私がどのように演奏するかということと密接にリンクしている。ローザスとの舞台では、私たちは完全に応答し合い、相互に即興の余地があります」

 かくして2023年10月、ジャン=ギアン・ケラスはひとり、バッハの無伴奏組曲の全曲録音に臨むことになった。2007年3月以来の同曲再レコーディングである。

 「新たにバッハを録音したいというこの衝動は、ローザスとのコラボレーションに鼓舞されてのものです。舞台の上で感じた自由や、バッハと一体になった瞬間に起こっていることを、いかにしてマイクロフォンの前で録音し、CDに刻印させる行為と和解させられるかについては、私もまだ解決索を見出せてはいません。こうしてお話ししたことで、来たるべきレコーディングのときに私がなにを優先すべきかを思い出せるでしょう」

 


ジャン=ギアン・ケラス(Jean-Guihen Queyras)
モントリオール生まれ。リヨン国立高等音楽院、フライブルク音楽大学、ジュリアード音楽院でチェロを学ぶ。1990年より2001年までアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・チェロ奏者を務め、02年にはグレン・グールド賞を受賞したブーレーズの選考により、傑出して有望な若手芸術家に対して贈られるグレン・グールド・プロテジェ賞を受賞。レパートリーはバロックから現代まで多岐にわたり、ウィーン楽友協会、コンセルトヘボウ、ウィグモアホール、カーネギーホール等、欧米の著名コンサートホールの多くでリサイタルを行っている。また、フィルハーモニア管、パリ管、チューリッヒ・トーンハレ管、N響、読響、都響をはじめとするオーケストラと共演。これまでに、ドヴォルザーク、エルガー等のチェロ協奏曲、バッハおよびブリテンの無伴奏チェロ組曲をはじめとする室内楽のCDをリリース、数々の賞を受賞。ドイツ・フライブルク音楽大学教授。

 


寄稿者プロフィール
青澤隆明(あおさわ・たかあきら)

1970年、東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。音楽評論、エッセイ、プログラム・ノート、インタヴューなどを執筆、多様なコンサートの企画制作、放送番組の構成も行う。主な著書に「現代のピアニスト30—アリアと変奏」(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの「ピアニストは語る」(講談社現代新書)、「ピアニストを生きる—清水和音の思想」(音楽之友社)。

 


INFORMATION
『シューマン:ピアノ四重奏&五重奏曲』今秋リリース予定

イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)/アンネ・カタリーナ・シュライバー(ヴァイオリン)/アントワン・タメスティ(ヴィオラ)/アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)