ECMを経て、自身のレーベルRed Hook Recordsを設立
――しっかりとした自分たちのサウンドを持ったものを作りたい

 例えば、アーロン・パークス『Arborescence』、ベン・モンダー『Amorphae』、トーマス・ストローネン『Time Is A Blind Guide』、キット・ダウンズ『Obsidian』など、この10年の間にECMからリリースされたタイトルの中でも一際新鮮な印象を与えたアルバムに、プロデューサーとしてクレジットされていたのがサン・チョンだった。それらは、ECMの象徴マンフレート・アイヒャーの膨大なプロデュース作品に貫かれたスタイルと美学に影響を受けながら、次の扉を開く可能性を示していた。

 Red Hook Recordsは、サン・チョンがECMから独立して立ち上げた新しいレーベルだ。第一弾は菊地雅章のラスト・レコーディング作品『ラスト・ソロ~花道』だった。ECMに関わる以前から準備が始まり2013年に録音され、満を持してのリリースとなった。そして、第二弾としてリリースされるのが、トランペッターのワダダ・レオ・スミス、ドラマーのアンドリュー・シリル、ドラマーで電子音楽家でもあるカシム・ナクヴィの『Two Centuries』である。ECM時代にスミスとシリルとビル・フリゼールによる『Lebroba』やシリルのカルテットの『The News』をプロデュースしたサン・チョンは、フリージャズを体現してきた二人のヴェテランと、彼らに師事したパキスタン出身の次代を担うナクヴィとの録音を実現し、レーベルの今後の方向性を象徴するアルバムとして作り上げた。来日したサン・チョンに、『Two Centuries』とレーベルについて、詳しく話を訊いた。

 「Red Hook Recordsは2020年に立ち上げた。コロナが発生して、リリースの延期、再延期を繰り返したが、リリース予定は2025年まである。ECMには約10年間務めて、より自分の創造性を外に出していきたいと強く思うようになった。ECMでは1年に2つしかプロダクションを担当しなかったからだ。ただ、ECM時代は僕にとってはとても大切だった。どういう過程でものを作っていくかを教わる時間だった」

 「ワダダとアンドリューとはECM時代に知り合っていたが、カシムはErased Tapesから出していた音源をラジオで聴いて気に入ったので、自分からコンタクトをした。そこから作品の模索が始まった。カシムはワダダとアンドリューの両方から学んでいたから、この二人と組むのがベストだと思ったんだ」

 カシム・ナクヴィは、ドーン・オブ・ミディのドラマーだった。アコースティックのトリオながら、プログラミングされているかのような正確なリズムを刻み、即興性もある演奏を繰り広げたドーン・オブ・ミディを、2016年にバルセロナで開催されたSonarで実際に観た。フェスティヴァルで最も印象的なライヴ・アクトの一つだった。その後、ナクヴィは、ニルス・フラームやオーラヴル・アルナルズのリリースで知られるUKのレーベルErased Tapesを拠点に、ソロ・アーティストとして活動を続けてきた。

 「ドーン・オブ・ミディを知ってる人はいたけど、カシム個人を認識している人は少ないと思う。でも、彼は本当に才能ある人だ。こういう仕事をしていると、ミュージシャンと一緒にスタジオに行って音を作り上げることももちろん大切だが、もう一つ大切なのは、常にアンテナを張って、ラジオ、ストリーミング配信を何処でも聴いて、良いアーティストを探すことだ」

 ナクヴィが師事した関係性は既にあったが、共にアルバムを作るという明確なヴィジョンを描き、3人を録音に向かわせる環境を整えたのは、他でもないプロデューサーのサン・チョンだ。そのプロセスは、ナクヴィとの土台作りから始まっていた。

 「カシムとは、スタジオに入る1年前から準備を重ねてプリ・プロダクションに入念に取り組んだ。カシムが送ってきた音源に僕がコメントを返す作業を繰り返した。だからこそ、カシムのことを熟知した上で、ワダダとアンドリューから如何にベストなものを引き出すかにトライすることができた。そうやってお互いの話をじっくり聞いて、簡単に否定するようなことはせず、正しく振る舞って進めていった」

 「僕がマスターと言われる人たちとの仕事が好きなのは、彼らはいい音を聴くとリアクションをする。そのリアクションは本当に美しくて、思いも寄らない素晴らしいものだ。ワダダもアンドリューもその音を聴くと、マスターと呼ばれることに納得する。彼らはたった一音でとても深遠な音を出すことができる。ワダダに、80歳過ぎてもトランペットが吹けるものなのか尋ねたことがある。彼はレコーディングやセッションのあとは凄い痛みに耐えていると話してくれた。それを見せないだけだと聞いて改めて感動したんだ」

 若手のミュージシャンとは徹底的にやり取りをした上で録音に臨む。そして、ヴェテランとは瞬間を大切にした場を作り上げる。

 「ECM時代からそうだった。だから、ECMでもまず若い人とやってみた。彼らはいろんな可能性を模索することにとてもオープンだからだ。年齢を重ねた人たちとはプリ・プロダクションは殆どやらない。リハーサルも少ない。それは、彼らのメンタリティーの尊重でもあり、世代の違いでもあると思う」

 こうした制作に向かう背景に、Red Hook Recordsが目指す方向性が見えている。

 「ユニークなサウンドがあること、ソニック・アイデンティティを確立することを目指さないといけない。例えば、ECMの録音が流れてきたら、そうだと分かる特徴がある。しっかりとした独特の強いサインがそこに見える、そんなレーベルにしていきたい。何でも良質な音楽をリリースすればいいわけではなく、良い音楽だけど、さらにその向こうにある、ECMやBlue Note、最近で言えばErased Tapesのような、しっかりとした自分たちのサウンドを持ったものを作りたい」