ポピュラー音楽の歴史を変えたボブ・ディランの青春
転がり続ける天才の夢と誇りとせつなさと

 「名もなき者」は、1961年、アメリカ中北部ミネソタからニューヨークに出てきた無名の青年が、やがてフォークのプリンスとして注目を集め、ロックに転じてファンを驚かせ、カリスマ的なスターになるまでの数年間を描いた伝記映画だ。

 ティモシー・シャラメ演じる主人公、若き日のボブ・ディランが、ヒッチハイクの車を降りて、ギター片手にニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにたどり着くところから映画ははじまる。

 彼が次々に出会うのは、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ジョーン・バエズらフォーク界の重要人物たち、公民権運動や反核運動に携わって彼に影響を与える恋人スージー・ロトロ(映画ではシルヴィ・ルッソという名前に変えられている)、カントリー界のはみ出し歌手ジョニー・キャッシュ、辣腕マネジャーのアルバート・グロスマン……などなど。

 タイトルの「名もなき者」の原題「ア・コンプリート・アンノウン」は、名曲“ライク・ア・ローリング・ストーン”の歌詞からとられている。

 この曲は、激動の60年代中期に彼がエレクトリック・ギターを手にして、ロックの流れを変えていった歴史的転換点を象徴する曲だった。以前は羽振りがよかったのに、いまは零落した女性に向かって、この歌の語り手は「誰にも知られないでいるのは、どんな気持ちがする?」と問いかける。

 そんな辛辣な歌詞をタイトルにする諧謔性は、一筋縄でいかない人の伝記映画ならではだが、物語はおおむね史実に基づいて進み、彼のことを知らなくてもサクセス・ストーリーとして快速にわかりやすい、楽しめる青春映画に仕上がっている。

 当時に詳しい人なら、公民権運動やキューバ危機、夢を求めて彼が出没した街の光景、ライヴの数々、彼を社会運動に導いたスージーとの恋、ジョーン・バエズとの関係、コアなフォーク人脈やファンに反発されたロックへの転身など、ああ、あの出来事やあの場所だと、反芻しながら味わえることばかりだろう。

 とはいえ細部は史実と異なる。たとえば、入院中のウディ・ガスリーを見舞いに行った病室にピート・シーガーがいて、ディランがうたう“ウディに捧げる歌”を聞き、彼を家に連れて帰る場面があるが、ボブが見舞ったときにピートがいたという事実はない。そうした脚色は、あえて時系列を入れ替えたり、現実と幻想を混在させたりするディランの歌作りの方法に似ていなくもない。それを確かめるのも、この映画を観るおもしろさであり、観てからの楽しみでもある。

 音楽がなければはじまらない映画だが、歌は主演のティモシー・シャラメ自身がギターを弾き語りしていて、これが素晴らしい。俳優がうたう伝記映画で、こんなに見事に主人公らしい歌を感じさせる映画はかつてなかった。コロナの流行で練習する時間がたっぷりとれたのだという。抒情的な歌も。観客の野次の中での“ライク・ア・ローリング・ストーン”の緊張感も、たいしたものだ。

 しかも字幕に歌詞の訳がつくのがありがたい。歌詞カードを追いながら聞いていたのとはちがうスピード感で、シンプルなラヴ・ソング全盛だったあの時代に、こんなに詩的で幻想的で複雑な歌をうたっていたのか、騒がれたのも当然だなと、時空を超えて現場にいるような臨場感だ。