2026年5月13日、大野雄二の訃報が届いた。誰もが知る“ルパン三世のテーマ”を生み出し、数々のCM音楽や映画/ドラマの劇伴も手掛けた巨匠は、85歳の誕生日(5月30日)を前にこの世を去ってしまった。インタビューなどを通して本人と親交があり、Mikikiでも〈聴いたことのない旧譜は新譜〉を連載中の音楽ライター北爪啓之に大野の功績について綴ってもらった。 *Mikiki編集部
ジャズピアニストがジャズの外の世界へ
2026年5月4日、日本を代表する作曲家、編曲家でジャズピアニストの大野雄二が老衰でこの世を去った。84歳だった。
たとえその名前を知らないとしても、彼が手掛けた“ルパン三世のテーマ”を聴いたことがないという人は稀だろう。およそ半世紀近くにわたって私たちの耳に深く馴染んできた、日本のポップス史上でも屈指の〈スタンダードナンバー〉である。
だが、大野の仕事はもちろんルパンだけではない。CM音楽、テレビドラマ、映画、歌謡曲、アニメなど、1970年代以降の日本のポップミュージックを振り返ると、その名は驚くほど多くの場所に刻まれているのだ。そして、その自由でクロスオーバーなサウンドの原点には、若き日のジャズへの憧れと決別があった。
1963年、大野は慶應義塾大学在学中に藤家虹二クインテットへと参加し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。1965年には大人気ドラマー白木秀雄のクインテットへ加入。日野皓正らと研鑽を重ねながら若手ジャズピアニストとして頭角を現していった。
1968年、白木グループを離れフリーとなった頃、彼はアメリカの一流ジャズメンたちと共演する機会を得た。ところがそのセッションを通して、本場のプレイヤーたちがその歴史も含めてジャズを完全に血肉化していたのに対して、自分たち日本人は最先端のジャズを模倣しているだけに過ぎないのではないか……そんな思いを痛感したという。そして、この経験こそが結果的に彼をジャズの外へと向かわせたのである。
不自由さに面白さを見出したCM音楽とテレビドラマでの活躍
転機となったのは、知人の紹介で舞い込んだラジオのCM音楽の仕事だった。当時はまだ作曲家としての経験も乏しかったが、学生時代から培っていたアレンジ能力を買われ、少しずつ依頼が増えていく。クライアントの要望に応え続けるCM制作の現場は、即興音楽であるジャズとは真逆の世界だったのだが、本人も後年「ちょっとマゾだったかもしれない」と語っているように、彼はその不自由さのなかにむしろ面白さを見出していった。限られた時間の中で耳に残る音楽を作るスキルや、要求に応じてスタイルを切り替える柔軟性など、大野はCMの現場で作編曲家としての能力を鍛え上げていくことになる。
それにしても、ピーク時には年間150本以上のCM音楽を作っていたというのだからワーカホリックにもほどがあるだろう。ちなみに、おなじみ〈きのこの山〉〈たけのこの里〉のCM曲も彼の仕事である。
もう一つ、CM音楽に携わったことで大きなプラスになったのは、多彩すぎるほどの音楽性をインプットできたことだろう。ジャズ一筋だった頃はビートルズすらまともに聴いたことがなかったという大野だが、CM制作ではさまざまな音楽を知っているほうが圧倒的に有利だった。そこで彼はロック、ソウルはもとより、世界各国のさまざまな音楽を手当たり次第に聴きまくったのである。
なお、当時の大野が主にレコードを大量に購入していたのは、現在もタワーレコード渋谷店内のショップインショップとして営業しているパイドパイパーハウスだったという。ともあれ、そうした膨大な音楽知識の蓄積が、後年の〈大野サウンド〉の源泉となったことは言うまでもない。
1970年代に入ると大野の活動はCM音楽のみならず、さまざまなフィールドへと急速に広がっていった。まずテレビ番組。1970年のNHKドラマ「ナタを追え」や1971年の「火曜日の女」シリーズなどを皮切りに数多くの作品を手掛けていくのだが、とりわけ重要なのは日本テレビで1971年から始まった石立鉄男主演のホームドラマシリーズだろう。「おひかえあそばせ」をはじめとして計8作続いたシリーズの全てを彼が担当。バート・バカラックなどを彷彿とさせる軽妙なソフトロック風のサウンドでドラマ業界に新風を吹き込んだ。そして日テレとのこの長きにわたる信頼関係が、のちの「ルパン三世」へとつながっていく。
一方、「大追跡」(1978年)、「大激闘マッドポリス’80」(1980年)、「白バイ野郎ジョン&パンチ」(1981年)などのポリスアクション作品では、石立鉄男シリーズとは毛色の異なるジャズファンクやフュージョンを導入した鋭利なサウンドを展開。どれもルパンと同じくYou & Explosion Band名義による演奏で、テレビドラマとしては異例なほどスタイリッシュな音楽に仕上がっていた。