イノヴェイターと振り返る〈日本シンセサイザー音楽の曙〉
日本のポップ・ミュージックでシンセサイザーが本格的に用いられ始めたのは70年代だが、その黎明期の作品群の中から、今改めて聴かれるべき秀作4タイトルが〈日本シンセサイザー音楽の曙〉なるくくりで、先日ソニーから復刻リリースされた。全体監修を担当したのは、冨田勲の内弟子にして、YMOのプログラマーでもあった松武秀樹。ここでは、日本のシンセサイザー・プログラマーとしての思い出を振り返りつつ、4作品について語ってもらおう。
――まず、ザ・エレクトロ・サンタクロース『シンセサイザーによる子供のための楽しいクリスマス』(76年)ですが、このグループは前後して『我が心いまだ安らかならず』というシンセによる名盤を発表したバッハ・リヴォリューションの変名ユニットですよね。
「そうです。彼らはシンセのレンタルやプログラミング専門の〈JAN EMS〉という会社の人たち、つまり僕の同業者でした。ここでは賛美歌などをやってますが、賛美歌ってコードの積み重ねとか単純なようにみえて、実はアレンジが難しいんです。彼らはクラシック音楽にも強かったから、そのへんのことはよくわかっていた。あと、子供たちが好きな動物の鳴き声とか、リズムも耳障りにならないような形にしている。これを聴くと改めて、シンセサイザーを違う角度から極めていた人たちだなと思いますね」
――松武さんにとって、彼らはいわば商売敵でもあったわけですよね。
「そうだけど(笑)、皆仲が良かったですよ。当時は同業者がまだ少なかったし、情報交換も頻繁にしてました。自分だけの技術の秘密までは教えなかったけど、どの機材を買ったとかあれを使ってるとか。そういう仲間意識の中から、80年代にJSPA(一般社団法人日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ)という団体も生まれたんです」
――当時はもう〈マニピュレイター〉という呼び名を使ってましたか?
「いや、まだですね。あの呼称は本来、電話局の交換手、線をつなぐ人のことなので、僕はあまり好きじゃなかった。元々はYMOの最初のマネジャーが使いだしたんじゃなかったかな。90年代以降はシンセサイザー・プログラマーという呼称が一般的ですね。70年代半ばだと、まだ音色作りがメインだったから、単にシンセの人とか、冗談半分でシンセ磨きとか言ってた気もする(笑)。
――次に、矢野誠のマコト・ハイランド・バンド名義の『INJECTION』(79年)。70年代、松武さんと矢野さんはかなり密なつきあいでしたよね。
「ええ。僕が最初に関わったポップス作品は、矢野さんが編曲とキーボードを担当した南佳孝『摩天楼のヒロイン』(73年)で、その後もいろいろとお手伝いしてました。でも、この作品には関わってません。当時僕はYMOに関わりだしていたからかもしれない。ここでのシンセは神谷重徳さんです。神谷さんは元々はギタリストだったけど、シンセにも早くから取り組み、自前のスタジオにたくさんの機材を持ってました。ここでは、神谷さんがMC‐8(ローランドのデジタル・シーケンサー)に打ち込んだトラックに高橋幸宏さんが生ドラムを正確にダビングしており、YMOのプロトタイプみたいですよね」
――当時、MC‐8は松武さんも既に使ってました?
「ええ、77年に出てすぐに買いました。最初にプロモーションした相手も矢野さんで、彼がプロデュースした矢野顕子『ト・キ・メ・キ』(78年)で初めて使いました」
――次に、79年のソロ・アルバム『デジタル・ムーン』に78年の音響実験ミニ・アルバム『謎の無限音階』を追加したご自身の『デジタル・ムーン+謎の無限音階』です。
「この頃にはもうMC‐8を完全にマスターしており、YMOでの実践もあって、譜面だけ見てスムースに打ちこめるようになっていましたね」
――〈打ち込み〉というタームは松武さんから生まれたと聞きましたが。
「いや、YMOなどにも関わっていた別のプログラマーの藤井丈司さんが最初に言い出したんですよ。〈プリプロ〉もそうだった」
――映画「007」シリーズの主題曲などをカヴァーした『デジタル・ムーン』は79年8月から10月に録音されてますが、その直前がYMO初のアメリカ公演で、直後が初のワールド・ツアーというものすごく忙しい時期ですよね。
「大変でした。確かソニー・ウォークマンの1号機が出た時(79年7月)の宣伝で、デモンストレーション音源の一つとして、このアルバムの曲が使われたんです。ステレオで聴ける臨場感のあるサウンドということで。それもあって、このスケジュールだった」
――『謎の無限音階』は、松武さんがYMOに参加するきっかけになったんですよね。
「そうなんですよ。ちょうど細野さんが作っていた“ファイアクラッカー”の人力版にどうも納得できなかったようで、〈『謎の無限音階』を聴いた細野が松武さんのシンセサイザーを拝見したいと言ってるんですが〉とマネジャーさんから電話がかかってきて。打ち込みというか、自動演奏をさせたいと。一通り説明した数日後にまた電話があり、〈アルファ・スタジオまで来てください〉と。で、“ファイアクラッカー”のレコーディングがいきなり始まったんです。没になったあの人力版を今出したらめちゃめちゃ売れると思うんだけど……音源、どこかにあるんじゃないかな?」
――最後は、ビートルズやサイモン&ガーファンクルなどをカヴァーした冨田勲さんの『スイッチト・オン・ヒット&ロック』(72年)です。『月の光』を作る前の、いわば習作的アルバムで、ご本人はインタヴューでも「古傷」だとおっしゃってましたが……
「冨田先生がモーグIIIを購入して1年たらずの頃の作品で、ソニーのスタジオからテレコとミキサーをご自宅に搬入して作られていたのを憶えています。実際、まだ手探り状態だったと思いますが、『月の光』で聴ける口笛の音やパピプペ親父の音などがここで既に完成してるんですよね」
――松武さんが冨田さんの自宅で勉強していたのはいつからいつまでだったんですか。
「71年夏から72年秋。でも、手取り足取り教わったわけじゃないんです。パッチングの仕方をはじめ、自分で考えなさいと言われました。〈君は音の設計図を描けるか? 音楽すべての設計図。それを描けなきゃシンセサイザーの音なんか作れないよ。それはつまり、音の色を塗るってことなんだ。どこに赤を使って、どこに青を使って、どういう風に繋いでいったらどうなるかっていうのを頭の中に描き、設計図を書きなさい〉という言葉は特によく憶えています」
――作品全体の音楽的ヴィジョンをちゃんと持ってないとだめだと。
「そういうことです。やたらいろんな音が出るから、なにも考えず、これでいいやじゃなくて。『月の光』も、ドビュッシーのピアノ曲がフルオケで鳴ったらこういう風になるんだという確たる設計図が先生の頭の中にあったからこそできたんです。僕もこの教えを、今までずっと大切な信条として守ってきました。〈僕は君を弟子にした覚えはない。弟子ってのは僕と同じことができる者のことだ。でも、松武君が僕と同じ音色を作ってもしょうがないでしょう。自分の音を作りなさい〉とも言われたけど、やっぱり僕にとっては永遠の師匠です。YMOが成功して〈君も遂に自分の音が作れたね〉と言われた時は涙が出ましたね。ああ、やっと独り立ちできたんだなと」
松武秀樹(まつたけ・ひでき)
神奈川県出身の作曲家、編曲家、シンセサイザープログラマー。71年より冨田勲のアシスタントとしてモーグ・シンセサイザーによる音楽制作を始める。78~82年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)にプログラマーとして参加してレコーディングや世界ツアーに帯同、〈YMO第4の男〉の異名を取る。ジャンルを超えた多くのアーティストの録音に関わりながら、81年より自身のユニット〈ロジック・システム〉を始動し、数多くのアルバムをリリース。80年代初頭にリリースした代表作『Logic』、『Venus』、『東方快車』は世界中に熱狂的なファンを生み出し、今なお各方面で高い評価を受けている。
寄稿者プロフィール
松山晋也(まつやま・しんや)
1958年鹿児島市生まれ。音楽評論家。著書「ピエール・バルーとサラヴァの時代」、「めかくしプレイ:Blind Jukebox」、編・共著「カン大全~永遠の未来派」、「J-PUNK/NEW WAVE ― 革命の記憶」、「プログレのパースペクティヴ」。その他、音楽関係のガイドブックやムック類多数。
RELEASE INFORMATION
日本シンセサイザー音楽の曙
監修:松武秀樹
https://tower.jp/article/feature_item/2026/01/14/1110



