蛇行する記憶と無駄の中の輝き
~他人の「頭の中」を伴走する愉悦の2冊~

 青森の一青年がバンド以外にもアイドルからプロレスまで呼びたいものを片っ端から呼んで早10年、ついに「売る山も底をついたらしい…」とも噂される野外イヴェント「夏の魔物」(=愛称)の事は、TBSラジオ『エレ片のコント太郎』でやついいちろうが熱弁していたのを聴いた。直後に朝日新聞の連載「末端時評」を捲ったら、豪雨下を24時間がかりで北上参加したブルボン小林が魔物フェスの魅力を〈落語の「頭山」のようというと変だが、会場を移動しているとき、誰かの「頭の中」を歩いているような錯覚があった。〉と綴っていて一気に臨場感が脳に染み込んだ。

滝口悠生 ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス 新潮社(2015)

 一方、〈九月末だがこのあたりではまだ稲穂は刈りとられていない。国道の片側には田んぼが広がり、強い日を受けて全面がぼんやり輝いていた。〉という風景描写から書き起こされる、滝口悠生の第153回芥川賞候補作『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』はピントが合うまでに多少の時間を要するかもしれない。が、数行後に〈冷たい川の水に足を突っ込んで呆然としていた私の目がその時何をみていたかなど、もう覚えていない。〉と主人公自身が明かし、それが14年前のバイク転倒直後の曖昧な記憶だと呑み込めば、読み手のエンジンも駆動しだして、あとは彼の脳内を伴走する快楽に酔えばいい。母校の美術講師として出逢った7歳年上の房子…渡米後の9.11で安否も不明な彼女との想い出…いわき市で出遭う東電社員の男らとの一宿一飯…仙台の商店街でジャンべを叩いていた蒲生さんの言葉…のちの大震災など知る由もない時期の東北地方の風景…バイト先で惚れた一歳年上の桃江への思慕…バンド部で腕を磨いて〈桃江先輩の魅力を世界に表明する、それこそが、この大学で過ごすことになる意味のあるのだかないのだかわからない四年間を費やすのにいちばん相応しい。〉と萌えた季節が暗転し、〈私の人生はそれから桃江先輩以後の時代となった。〉…と、ジミヘンを絡めて読者の笑みを誘いもする、時制の編み方に秀でた中編だ。

 が、単刀直入なこのタイトルを選んだ作家はおそらく、14年間(2001.9.11~2011.3.13)という年輪の軋み、歪んだ進路と現前の家族像、寄せては返し浮かんでは消える記憶の濃淡、ループの度に遠近が替わる脳内模様を、不世出のギタリストの変幻自在な奏法と重ね合わせたかったのだろう。かつての自分が今、〈見失った行き先〉で生活しつつ想う。〈妻や娘を見て、妻や娘がこれまで生きた時間を思うと私は涙が出る。自分以外の人間がたしかに過ごしてきたらしい時間の、そのとらえようのない長さ、再現できないすべての時間があったのだということだけで、目から涙が出なくても体のどっかで何かが出る〉、行間からLittle Wingが聴こえてきそうな箇所だ。自動設定の針が再び1曲目に戻るかのような終章の余韻もいい。

 

星野源 働く男 文春文庫(2015)

 さて、今月読んだもう一冊、星野源の全仕事的な自筆集『働く男』には発表当時まるで反響がなく唯一、故・川勝正幸だけが称賛したという短編「急須」が収められている。そこにも〈女の記憶力は本当に怖い。どれだけ喧嘩をしても、いつも記憶力の差で負ける。〉という箇所があり、奇しくも滝沢作品と響きあう感触を本書の全編で憶えた。周囲でバンド結成が流行った中1時、「置いていかれる…」との焦りから自身もギターを始めた星野源。超名曲「くだらないの中に」を〈世知辛い世の中を、頭皮の匂いを嗅いだり、足の匂いを嗅いだり、くだらないこととして乗り切ろうとする人たちの歌〉と自説し、『エピソード』収録の「未来」は〈3.11以降、初めて作った曲〉で、続く「喧嘩」を〈心中ではなく、寿命で夫婦同時に死にたいよねという曲〉と明かしている。細野晴臣を〈最も神に近い、大きな普通の人〉と崇める彼にはSAKEROCK名義の『慰安旅行』なる作品があるが、かつてお笑いコンビ・ナイツ塙宜之も自らの話芸のテンポは『泰安洋行』から多大なる影響を受けていると語っていた。前掲文でブルボン小林は〈誰でも大好きなものは順にではなく同時に頭の中にあり続ける。〉とも書いていた。『働く男』の「俺を支える55の○○」の章を読むだけでも星野作品を全部聴きたくなってきた。

星野源の2011年のシングル“くだらないの中に”