illustration:目黒雅也

 モンクの文章を再度書くことになり二枚選ぶのですが、全然迷いませんでした。「Solo Monk」「Thelonious Monk Quartet With John Coltrane at Carnegie Hall」。モンクのアイロニーはピカイチですが、日本語訳である「皮肉」とは誰が当てはめた漢字なのでしょう。アイロニーの語源は知らないふり、ソクラテスの無知を装うその行いが良い例ですが、アイロニーの訳は皮(皮膚?)に近い肉ではなく、その人間の根幹に隠れたネジレな筈です。モンクは多くの音楽理論や人々の思考や動向が直感的に分かりすぎて、それを音楽の中でアイロニカルなサウンドに還元しようと試みた。しかし活動後半からその範疇さえ超えて、「アイロニーを超えた、音楽理論さえ更にもっとネジッタ何か」を演奏に取り入れない限り、己が精神を守る術がない事を知るに至った気がします。モンクがそこまで繊細だった事は曲を聴けば一目瞭然。また、頭の良すぎる人が陥る、いわゆる本当に本人が安心できる場所を生涯見つけられなかったジレンマにもおちいっていたのではないでしょうか。モンクの作曲する曲、それを演奏する彼自身、いつ聴いてもそこには音楽理論的にもサウンドの面からも、ほらここにも落とし所はないでしょう、と無意識のレヴェルから我々に語りかけてくるモンクがいつも見え隠れしているから、誰がどう否定しようがモンクはモンクでしかあり得ないのです。更に、そのアイロニーを通してモンクの楽曲を理論的に分析することは、更なるアイロニカルなユーモアの発見となるという別な形のアイロニーに結びつきますが、この様にモンクに関わると翻弄される。おぬしもワルよのうセロニアス。

 ッチャチャチャ!! ダダダ!! ッジャジャジャ!! ダダダ!! ッタララララ~ラララララ~ララッ!! ッチャチャチャ!!

 私が音高生でクラシックピアノを弾いている時に初めて聴いたモンクの《Little Rootie Tootie》 THE THELONIOUS MONK ORCHSTRA『AT TOWN HALL』の宇宙の果てのチャチャチャ♯7th。これを聴いてたまげたオレは、一気にモンクにいかれました。シモキタのコインロッカーに学ランぶっ込んで、ジャズ喫茶「マサコ」へジャズ聴きに毎日かよってたな。チャチャチャ!!の正体コレ如何に? モンクにはホロヴィッツやルービンシュタインと同じクオリティーのピアノでいつも演奏活動をして欲しかった。クラシックの巨匠に比するピアニストなのですから。そしてあのチャチャチャ!!のハーモニーをもっとはっきりと聴き取りたかった。調律の悪いピアノを弾くモンクは好きではありません。

 その私の夢が叶ったのがカーネギーホールのライヴ録音でした。やっとまともなピアノでモンクの音の粒立ちがキレイに聴き取れた。同時にこの演奏は、彼ら黒人が世界一の檜舞台から落とし前をつけた瞬間でもあると思うんです。黒人はモンクのお爺さんぐらいまで奴隷として扱われてきた筈です。聴衆のあんたら白人がオレらのグランパ達を「無理矢理」アフリカから連れてきたワケだけど、えっと、こんなヒップでカッチョイイ、イカしたサウンドをその「奴隷」の末裔が作曲、演奏したら音楽の最先端行っちまった。しかもジュリアードもへったくれも全く関係ないクロのオレがよう、何かモンクある?なんて。クラシックの巨匠が欧州から呼ばれるのはそう珍しいことではありません。でも1957年という時代に、同じNYのダウンタウンの酒場の片隅でボロピアノ弾いていた黒人のモンクがカーネギーのステージに立ったんです。カッコイイな。最後に、『Solo Monk』の一番凄いところは、いろいろ聴いたけど飽きたなあっていう時に聴いても飽きないのはあの優しき皮肉?ではないでしょうか。

 


南 博(Hiroshi MINAMI)
ジャズピアニスト、作曲家、エッセイスト。1960年東京生まれ。1986年東京音楽大学器楽科打楽器専攻卒業。ピアノを宅孝二、Christian Jacob、Steve Kuhnに師事。1991年バークリー音楽大学パフォーマンス課程修了。自己のグループ「GO THERE」をメインに活動。著書に、「マイ・フーリッシュ・ハート」(扶桑社)「黒鍵と白鍵の間に- ピアニスト・エレジー銀座編」「鍵盤上のU.S.A. - ジャズピアニスト・エレジー アメリカ編」(小学館)