日々の暮らしを切り取った歌から浮かぶ、バンドの根底にある哲学。自分自身を表現したタイトルの下でまとめられた12曲をもって、彼らは〈ライフワークとしての音楽〉に向けた第一歩を踏み出す――

地方都市で暮らす僕

 「自分のやってきたことは間違ってなかったと思えました。古い歌を歌うときも、気持ちのズレもなく素直に感情を込められたので。昔の歌とは状況も視点も違うんですが、根っこは同じだったのを感じられたのは嬉しかったです」(秋田ひろむ、ヴォーカル/ギター:以下同)。

 今年は3月にベスト盤『メッセージボトル』を発表し、続いてそのリリース・ツアーを行ったamazarashi。そうした一連の活動について秋田は冒頭のように振り返るが、そのツアーの最中に制作されたのがニュー・アルバム『地方都市のメメント・モリ』である。バンドの中心人物である秋田が青森在住であるということで〈地方都市〉。そして、ラテン語で〈死を想え〉〈死を記憶せよ〉という意味を持つ〈メメント・モリ〉。amazarashiの音楽は、ネガティヴな言葉や事象を描くことでその先にある希望を見い出していくものだといういことを考えると、この表題は〈amazarashiらしい〉というよりも、プロジェクトの在り方そのものと言っても過言ではないだろう。

 「俳句や川柳を詠む人が綺麗な景色を見て〈一句詠むか〉ってなるような感じで、僕も日々のさまざまを歌にしました。田舎町で〈終わり〉を見据えて生きてる人々や、僕のことももちろん。そういう視点で出来たアルバムです」。

 そんなふうに、「普段の暮らしの情景やそこから生まれる感情をただ描写する」ことを意識して作り上げられた作品だという今作。そこに広がる世界観からは地方都市の暮らしや風景、その場所で生きる人々を描いたコンセプト作のような印象も受けるが……。

amazarashi 地方都市のメメント・モリ ソニー(2017)

 「はじめは単純に聴いてもらいたい曲、良い曲を選んで、そこからタイトルを決める段階で、どういうふうにまとめて名付けようかと考えました。なんとなく日記的なアルバムになるだろうとは思ってたんですが、どう切り取るかに悩んでしまって。〈絶望の歌〉〈希望の歌〉とも、〈amazarashiの集大成〉と切り取ることもできるんですが、最終的には〈地方都市で暮らしてる僕が歌う歌〉という視点で切り取ることにしました。『地方都市のメメント・モリ』は、コンセプト・アルバムというよりは、僕の暮らしを切り取った作品です」。

 

根底は変わらない

 〈破り捨てられたちっぽけな一行も/数年を経た今となっては/ついには岩のような絶望すらも穿つ〉――開戦宣言さながらの勢いで秋田が叩き付ける言葉たちを、3拍子で掻き鳴らされるバンド・サウンドがより激情的に後押しするポエトリー・リーディング曲“ワードプロセッサー”がオープニングを飾る本作。「フェスとかで僕らを知らない人たちがガツンと喰らうもの、自己紹介的な曲をイメージして作りました。カッコイイのが出来たので、アルバムでも1曲目にしました」という苛烈な楽曲がある一方で、CMでオンエアされていた“フィロソフィー”のような軽やかで開けたサビに意外性や新味を感じさせるものもあるが、〈なりそこなった自分と/理性の成れの果てで/実現したこの自分を捨てる事なかれ〉という歌詞からは、彼の根底にあるものはずっと変わっていないことが伝わってくる。

 「〈社会人への応援歌〉みたいなキーワードがあって、そこからイメージを膨らませていった曲なんですが、やはり自分に置き換えないとピンと来なかったので、僕の体験を思い出しながら歌詞を作っていきました。だから、応援歌ではあるんですけど、結局は自分のことを歌ってますね。自分の辛かったこと、苦しかったことからどう自分を肯定していくかというamazarashiの根底にある哲学を歌った曲です。〈なりそこなった~〉の部分は〈メッセージボトル・ツアー〉で演ったポエトリー・リーディングからそのまま拝借しました。あのツアーを終えたから書けた歌詞だと思います」。

 さらには、浮遊感のある幻想的なイントロからエモーショナルなバンド・サウンドへと雪崩込む叙情的な音世界のなかで「青森市の日常の情景を、良いとか悪いとかでなく、僕なりにただ切り取った」という“水槽”や、淡い透明感を纏ったミニマルなサウンド・プロダクションが遠き日の思い出を美しく彩る“ハルキオンザロード”といったナンバーも。「これは実話ですね。〈ハルキ〉は仮名ですが昔一緒にバンドをやってた友達です。そして、遠い美しい思い出の歌なので、より詩的に表現したいと思って作りました」という同曲に続くのは、今作のなかでもフォーキーな色合いが濃厚な“悲しみ一つも残さないで”。「僕が故郷のことをよく歌うのはフォークの影響かなと思います」と秋田は分析するが、ここでは故郷を離れていく人間を見送る側の胸中が描かれている。

 「確かに見送る視点の歌なんですけど、これは今現在の僕の視点です。ここ(青森)で暮らしていこうと決めてから、今ではすっかり青森の人間です。自然と湧き出た歌でした」。

 

ライフワークとしての音楽

 そんな〈日記的なアルバム〉を締め括るために取り組んだのが、ラスト・ナンバーの“ぼくら対せかい”だ。どこか淡々としていて寂しげな雰囲気があるものの、それでいて温かみも感じさせるサビのメロディーが耳と胸に残る。

 「このアルバムは、最終的には〈生活者の賛歌〉にするべきだと思ったんです。今年は初めて青森でライヴしたのもあって、地元の音楽仲間や友達と会って久しぶりに話す機会があり、そこから生まれた感情だと思います。昔の彼ら僕らは、世界を変えられると思って戦ってました。今は生活があって、やりたいことがあって、仕事があって、守りたいものもあって、戦ってます。そのどちらも同じくらい美しいことだと思います」。

 地元である青森については、「故郷でなかったらこんなに執着するような場所ではありません。好きとも嫌いとも言い切れません。でも僕が生まれた街で、好きな人たちが住んでる街だから執着してるんだと思います」と語る秋田。“ぼくら対せかい”の〈ぼくら〉にはもちろん彼も含まれているのだが、歌詞からはどこか俯瞰した視点も感じられる。それは、彼が一度地元を離れて東京で生活していた経験があるからかもしれない。

 「そうですね。青森を〈地方都市〉と呼ぶのは青森以外の価値観だと思います。ネットとかSNSとかで価値観は平均化、単一化されてそうですけど、意外と地方の人間はまったく違う価値観で生きていたりします。今現在も東京と青森を往復してる生活なので見えてきたことかもしれません」。

 これまでも自身から生まれる感情を丁寧に紡いできた秋田だが、『地方都市のメメント・モリ』ではこれまでの活動で得た多角的な視点から彼を取り巻く環境/生活にフォーカスしたことで、表現者としてはもちろん、一人の人間としての彼をより深く掘り下げ、肉薄した一枚と言えるのではないだろうか。

 「〈一生音楽を続けていく〉と決心してから、〈ライフワークとしての音楽〉をずっと想像してました。コンセプチュアルなものは好きだし、またやりたいんですが、こういう日記的な表現は絶対必要だと考えていて、このアルバムはその第一歩だと思います。それが出来て嬉しいです」。

 

amazarashiの映像作品を一部紹介。