殺人などで知られるカルト・リーダー、チャールズ・マンソンが83歳で死亡した※。彼は69年に投獄されたが、テート・ラビアンカ殺人事件で逮捕される以前も合わせると、人生の半分以上を矯正施設や刑務所で過ごしていた事になる。全米を恐怖に陥れたマンソン・ファミリー・カルトによる恐るべき殺人事件は、多くの人々からヒッピー・ムーヴメントによる愛と平和のメッセージを歪ませる醜い一打として受け取られた。その後、マンソンについて多くの書物が書かれ、彼の不気味な眼差しは鉤十字や悪魔の数字〈666〉のように悪の象徴となった。音楽の世界においても、数多くのアーティストがマンソンを悪のシンボル、または失われた理想のシンボルとして作品化する方法を模索している。
※2017年11月に死去
マンソンは、軽犯罪者のシングルマザーに育てられ、非常に厳しい幼年期を過ごした。少年の内から矯正施設で過ごしていたが、そこでは矯正されるよりも、だましや悪の手口を学び、制度の穴をつく方法を覚えたようだ。67年に刑務所から釈放されると、彼は自分のおかしな思想の中にヒッピー文化を取り込み、自然愛護などについてうそぶくようになるが、その頃にはすでに彼の道は決まっていたように思われる。
18歳の頃には、熟練の車泥棒かつ武装強盗犯で、少年院では受刑者の男子を強姦していた。成人すると、彼は10代の少女達の売春斡旋や小切手詐欺、他あらゆる窃盗に手を染める。また、刑務所では心理学、聖書、サイエントロジー、催眠術なども学んだ。同じ頃、音楽にも興味を持ち、〈社会の敵1号〉として知られる犯罪者のアルヴィン・”クリーピー”・カーピス(強盗の際に無差別に殺人を犯すことで有名だった)にギターを習っている。マンソンは67年に連邦刑務所から釈放されたが、その後さらなる破壊行為、殺人や音楽への関わりを深めていった。マンソンの人生についての細かな事実は曖昧であるが、それは彼や彼の信者達が数々の嘘をつき、またドラッグを多用していたので、彼らの言葉のどこに真実があるかわかりにくいためだ。
以下にはその曖昧な中から、血みどろの事実を述べていく。
ゲイリー・ヒンマン
さまざまな楽器に熟達したミュージシャンで、当時博士号取得のために勉強もしていた。
彼は3日間に渡り拷問を受け、金品を奪われ、体を切断され、殺された。理由はマンソンのバンドに参加するのを断ったため。また、マンソンはヒンマンが遺産を相続したとも思っていたようだ。ヒンマンは創価学会に所属していて、その年の夏に日本に行く予定にしていた。死ぬ間際、彼は念仏を唱えていたという。
フィル・カウフマン
ロック業界の伝説的な人物で、バンドのツアー・マネージャーとして有名。ローリング・ストーンズやエミルー・ハリス、フランク・ザッパらとも仕事をしている。彼は歌手のグラム・パーソンズの遺体を盗み、ジョシュア・ツリー国立公園の砂漠で荼毘(火葬)に付した(これはパーソンズがジョシュア・ツリーを愛していてそこに埋葬されたかったと希望していたため)ことで非常に有名だ。パーソンズには生前そうして欲しいと依頼されていたという。
そのカウフマンは、若い頃マリファナの密輸で逮捕され、ターミナル・アイランド刑務所で服役中にチャールズ・マンソンと出会う。マンソンのことをギタリストとしては下手だが、ソングライターとしては才能があると感じたカウフマンは、マンソンを音楽業界の知人達に紹介したが、彼らはマンソンに興味を持たなかった。釈放後、カウフマンは短期間マンソンのカルトに身を寄せている。カルトはほぼ女性で構成されていて、(カウフマンは)マンソンや他のカルトメンバー、またはマンソンが進めた人物とのセックスに抵抗がなかった。後に、カウフマンは自分を〈音楽業界の誰よりも多くの連続殺人犯とセックスした〉と自慢している。マンソンが逮捕された後、マンソンの音楽を集めてアルバムを作成、タイトルを『Lie: The Love and Terror Cult』(70年)とした。このアルバムにはマンソンの顔写真を表紙としたLIFE誌の写真を使い、雑誌のロゴがLIFEではなくLIEとなるように編集した。