1. LIQUIDROOMでワンマン・ライヴを催せば即座にチケットは売り切れ、アナログ盤をリリースするやいなや、瞬く間に店頭からなくなってしまう……。〈カルト的〉と言ったらちょっと違うだろう。もっと広い、リゾーム的な、年齢も性別もバラバラな分厚い聴き手たちの層に支えられているのが、Lampというバンドだろう。2000年の結成以来、活動はどこか不定期にも感じられるが、その実、定期的に届けられる作品の積み重ねが、着実に聴き手の幅を拡げていっているのを感じる。

2. 振り返ってみれば、2010年代の国内音楽市場における大きなトレンドであったシティ・ポップは、その言葉の濫用のゆえか、似たり寄ったりの音が氾濫してしまったがゆえか、ジャンルの再検証や〈シティ・ポップ〉という言葉の再点検が始まっているような気がしないでもない。むやみに〈シティ・ポップ〉というラベルを貼っておけばCDが売れた状況でもなくなっているのは確かだろう。2012年という早い段階で磯部涼がtofubeatsの“水星”について書いた、あの詳細なシティ・ポップ論に私たちは再度立ち返るべきではないだろうか。

3. それこそ、今世紀初頭から、ある面ではシティ・ポップ的なる音楽を追求してきたLampは、そういった文脈で聴かれたり、〈トレンドの先駆け〉というような安易な位置付けや消費のされ方があってもおかしくはない。が、Lampを取り巻く環境はどうも違う。聴き手や周囲のミュージシャンのLampというバンド、あるいはその作品への向き合い方は、まるで壊れ物を扱うかのように慎重で、丁寧で、真摯であるように感じる。聴き手がバンドと作品をリスペクトしているような関係性――そこでは安易なラべリングは当然退けられる。そういった関係性は、とても稀有なものであるし、そこまでのものを聴き手との間に築けるミュージシャン/バンドはそう多くはない。

4.〈泡沫〉〈幻想〉〈ユウトピア〉〈ゆめ〉と曲名やアルバム・タイトルに登場する言葉を拾い上げていくまでもなく、Lampのディスコグラフィーを追うと、どんどん現実感が失われていくような錯覚をおぼえる。複雑な和音と楽曲構造が、霞がかったような、何かこの世のものではないようなスムースなポップスとして提出される――その極点が2014年の『ゆめ』の“さち子”であり“シンフォニー”であったのだとしたら、4年ぶりとなる新作『彼女の時計』は、その新しい展開だと言えよう。

5. 前作を特徴づけていた管弦楽器をふんだんに使用したアレンジメント(一部を北園みなみが担当していた)とは打って変わって、『彼女の時計』を特徴づけているのは、80年代的な華やかで柔らかなシンセサイザーやシンセベースの音色、一部の楽曲で聴けるドラム・マシーンの控えめな打音である。それらは80年代の音楽への直接的な参照といったふうではまったくなく、むしろ架空の80年代の音楽を志向しているかのようである。くぐもった、アナログ的な音像は、Lampのサウンドの幻想的な質感、現実感のなさに拍車をかけている。

6. 先の磯部涼の論に倣えば、シティ・ポップとは〈現実の都市に居ながら、架空の都市を夢見る音楽〉である。私の理解ではシティ・ポップとは、ジャズやリズム&ブルースなどのアフリカ系の人々の音楽と、ここ日本との距離感に由来するものだ(本作について、染谷大陽は80年代のブラジル音楽からの影響を語っている)。だが、Lampの音楽からは〈現実の都市〉が抜け落ちているのを感じる。都市という中心も郊外という周縁もないそれは、〈夢のなかで見る夢〉というような手触りの音楽であり、シティ・ポップの先にあるシティ・ポップだろう。奇しくもアルバムは〈まだ覚えているなら/ゆめの続きを見よう〉(“Fantasy”)という歌詞で締め括られる。夢の先の、そのまた先へ。Lampの音楽的冒険はどこまで行ってしまえるのだろうか。