去年So Sorry,HoboというバンドをMikikiで特集して、今年はMikiki主催ライヴにも出ていただきました。そのライヴ後、So Sorry,Hoboでギターを弾く岩井正義に〈自分がメインでやってる3ピース・バンドもあって、週に3~4日、新宿で路上ライヴをやってるからぜひ観に来てほしい〉と言われたのがBurnQueとの出会いでした。
自分たちのことを〈火山〉、路上ライヴのことを〈噴火〉と呼ぶ彼らを最初に観た感想は〈いや~バカやってるなあ〉だったけれど、なんだか次第にバカがカッコよく見えてくる。聞けば、2019年は〈火山盤〉と称したCDを毎月リリースして、全12作を路上で100枚ずつ売るのだという。いや、倖田來未かよ!(あちらは12週連続シングルリリース) いまはCDを100枚売るのも大変な時代、それを無名のバンドが、道端で。バカ、ここに極まれり。
しかし、そのバカさがやっぱりなんだか気になるし、音も粗削りだけどカッコよくって、〈1月盤〉のレビューも書きました(そこでもバカバカ言ってる、本当ごめんなさい)。そしたら、1月盤は100枚、あっさりと売り切ってしまった。いや、〈1月盤〉だけではない。寒い日も暑い日もポリスメンに止められながら新宿の路上でライヴをやり、先月の〈8月盤〉まで800枚、全部売り切ってしまっているのだ。スゴイ。8月には東京・下北沢GARAGEでワンマン・ライヴも開催し、訪れたお客さんの多くは路上で彼らを知った人たち。ワンマンの日にリリースされた〈火山盤ベスト〉、その名も『火山Burn』もめちゃくちゃカッコよくて、気付けば〈このブログに出てくれ〉と連絡し……。今日はそんな彼らのお話です(岩井さんが喋りすぎたので、ちょっと長いかもしれません……)。
――〈BurnQueっていうバンドをメインでやってるんで、聴いてください〉って最初に言われた時は、まだ話半分~話7分くらいで〈聴きますよ!〉とか言ってたんですけど、その後に下北沢GAREGEの大橋(真由美)さんという方が岩井さんのことをすごい褒めていて、それを聞いてたら応援したくなったんです。それがちょうど1月末で、〈1月盤〉がギリギリ売れ残っていたから買って。でもSo Sorry,Hoboでは梶原笙という男がベラベラしゃべって、岩井さんは横でガハハと笑うだけだったから、こんなに熱い人だとは思っていなくて。
岩井正義(ヴォーカル/ギター)「(笑)」
川井宏航(ベース)「梶原君の圧政を受けてるからね」
岩井「だって俺喋ったら怒られるんだもん」
――そしたらこっちはこっちでぶっ飛んでて。岩井さん、すごいバンド掛け持ちしてますね。
岩井「So Sorry,Hoboの俺は完全にウソですから! すげーギター弾けそうな顔して出てきて、ジョン・フルシアンテのマネをしてるだけです(笑)。酒井さんが路上ライヴに来てくれたら、意外と反応が良くて」
――意外と(笑)。でも、最初にいちばん良いと思ったのはドラムスの音だったんですよ。ギターやベースは路上だとアンプも小さいし、本領発揮できないところもあると思うんですけど、ドラムスがフルスイングでドッカドッカ叩いてて。
出口賢門(ドラムス)「ありがとうございます……」
――あのドラムセットは(以前所属していた)オーケストラから引き継いだそうで。
出口「オーケストラからまだ借りてる状態です……」
岩井「借りてるもん道端で使っちゃダメだよ(笑)」
――そもそも、BurnQueって元は4ピースだったんですか?(4人編成時代に出場したオーディションのページを見ながら)
岩井「いや、最初は5ピースです。鍵盤がいて、ギター、ベース、ドラムスがいて、俺はピンで歌ってて。客席に殴り込みに行ったり、お客さんの悪口言ったりして、めちゃくちゃやってました。〈金払いに来てその態度、楽しいですか~!?〉とか言って(笑)」
――ひでえ(笑)。結成はいつなんですか?
岩井「話は長くなるんですけど、元々はネットで知り合ったミッシェル(・ガン・エレファント)好きの1個下のギタリスト。いまジオラマラジオで(サポート)ベースをしてるビチャ(スティーブン・ビチャルバーグ)とバンドをやってた奴なんですけど、そいつと2人でバンドを組んで、Myspaceに音源をアップしたり、高円寺の無力無善寺で毎週ライヴをしたりしてて。バンド名はなんだっけ? 忘れちゃった(笑)。そしたらある日、バンドのHPにメッセージが来て、〈僕は東京の高校3年生、梶原笙という者です〉って」
――えっ!? キモっ!?
一同「(笑)」
岩井「いま考えるとね(笑)。〈あなた方の音楽に非常に感銘を受けました。自分はギターは少し触れますけど、楽器はできません。詩が書けます。ザ・ジャムが大好きです〉って。それでライヴに招待したら、〈すっごいカッコ良かったです〉とか言ってきて」
――えっ!? あの人を褒めない梶原さんが?
岩井「そうそう(笑)。〈やっぱり何かやらせてほしいです〉って言われて、ベースをやらせることにして。そしたら翌日ベースを買ってきて」
――えっ!? 何あの人!? 無職なのに!
岩井「その頃の梶原は渋谷の道玄坂のファミマで働いてたんですよ(笑)。それで梶原が加入して、さらにメン募を見て〈ベースが弾けます〉って連絡してきたのが、Gateballersの本村(拓磨)なんです」
――へえ~! でもベースが2人(笑)。
岩井「結局そのバンドは解散しちゃうんですけど、みんな同じ大学に入って、俺は本村たちと〈便所飯〉ってバンドを組むんです。梶原も加入するはずが〈俺は売れる音楽をやる〉とか言い出して、それでSo Sorry,Hoboができるんです」
――最初褒めてたのに!
岩井「便所飯も暴れるだけ暴れてすぐ尻すぼみになるんですけど、Gateballersができ、So Sorry,Hoboもあって、そういうのを経て大学3年でBurnQueを作ったのかな。BurnQueも最初のベースは本村だったんですけど、それ以外は初めて組むメンバーで、5人でした。当時はSo Sorry,Hoboが仲間内でいちばんちゃんとしてるバンドでしたよ。ギターロック全盛だった頃のGARAGEによく出てて」
――BurnQueっていうバンド名はどこから?
岩井「俺のボイトレの先生が付けたんです。ボイトレって言ってもずっと叫ばされてるだけでしたけど。しかもそこには当時激オンチだった梶原も通ってて(笑)。先生に〈岩井ちゃんは何がしたいの?〉って言われて、俺は〈バーンとした曲と、キューっとした曲がやりたいんですよ〉って答えて。そしたら〈じゃあバーンキューじゃん!〉って言われて。それで決まったんです(笑)」
――キューっていうのは切ないキューッ?
岩井「心がキューっとするような曲ってことですね。その時考えてたバンド名は〈三冠王〉とか〈芋虫〉とか〈変態倶楽部〉とかだったから」
川井「漢字がカッコいいみたいなね」
――この話、知ってました?
川井「はい。当時は普通に友達だったので、BurnQueの5人体制のライヴも観に行ったし。最初に彼に会ったのはSo Sorry,Hoboのライヴで、ステージに野次を飛ばしてるところでしたよ。オンチな梶原君に対して〈歌うのやめろ~!!〉とか(笑)」
一同「(笑)」
川井「この人やべえなとは思ったんですけど、打ち上げ行ったらその人いるし、最終的に岩井、梶原君、僕の友人と4人でサイゼリヤでひたすら時間を潰して。バカな話をするうちにすごい仲良くなって」
岩井「そうこうしてるうちに一人辞め、本村が〈Gateballers一本でやるから〉って言い出して辞めて、それにつられて他の2人も辞めて。大学卒業の年に1回ひとりになったんです」
――え、BurnQueってひとりの時期もあるんですか!
岩井「そうそう。〈岩井正義(BurnQue)〉って名義で弾き語りをやってたんです」
――そうだったんですね。出口さんとの出会いは?
岩井「5人時代によくこの人(出口)のいたバンド(Mond)と対バンしてて」
出口「よくレッドクロス(新宿紅布)で対バンしててね」
岩井「初めて観た時からこの人のことはカッコいいと思ってたんですけど、当時のメンバーからよく怒られてて、〈出口くん良いじゃん〉って思ってて。お互い同時期にバンドが無くなっちゃって、俺は家に引きこもるんですけど、たまに誰かと音を合わせたくなって、この人のことを思い出すんですよね。それで声かけて月イチくらいで2人でスタジオに入って」
出口「その前にMondとBurnQueで合同セッションをしたりしたからね」
岩井「そうだった。それで一緒に合わせてみたらすごいしっくりきて」
――誘われた時はどうでした?
出口「誘ってもらえたのは嬉しかったし、それまでは王道のポップスとかミスチルとかを聴いてたから、新しいジャンルに挑戦する気持ちになったんです。それにのめり込んでいったらどんどん音がデカくなるし、周りに〈いいね〉って言ってくれる人も増えてきたし」
岩井「この人はどう聴いてもロックドラマーの太鼓を叩くのに、ロックを何も知らなかったんです。それこそ〈ツェッペリン聴きなよ〉みたいな話からして、CDを貸したりするようになったらどんどん吸収していって。もともとロックが好きでこうなったんじゃなくて、素質があったんですよね。このバンドでこの人だけは天才だと思ってますよ。(自分を指して)バカ・(川井を指して)バカ・(出口を指して)ミュージシャン」
――おおー! だそうですよ。
出口「嬉しいですね……」
――え、岩井さんに対しても敬語!?
出口「誰にでも敬語なんですよね……」
岩井「同い年なのに!」
――だから怒られたりしやすいんじゃないですか?
出口「あー。あるかもですね……」
――でも、路上でもこないだのワンマンでも、汗だくになってすごいドラムスを叩くじゃないですか。普段こんな温厚な人には見えないですよ。
岩井「この人、感情が基本ないんですよ(笑)。でも太鼓を叩いてる時だけ人間の顔してるから、叩き続けないとダメなんですよ」
――なんかいい話。感情がないんですか?
出口「そうでもないですけど……」
岩井「だってブチ切れたこととかないんですよ」
出口「ないですないです。怒ったことがない。〈自分のほうがよくなかったのかもな〉って思うタイプです」
――それで岩井さん、出口さん、そして前任のベーシストで3ピース・バンドになるんですね。
岩井「ベースは小学校の同級生ですね。最初に梶原たちとやってたバンドも、実は梶原が入る前のベースは彼だし、便所飯の初代リード・ギターでもあるし。一緒に悪さをしてた腐れ縁です。出口と2人でセッションしてた頃に〈そろそろベースもいたほうがおもしろいな〉って思って、当時ヒマしてた彼を誘って」
出口「その2人でセッション・バーでセッションとかしてたこともあったみたいで」
岩井「そうそう、ブルース専門のね。それが2015年の夏ぐらい。それで、2015年の12月に3人体制の初ライヴをレッドクロスでやりました。その時から、横に気の狂ったヤツ(前任ベーシスト)がいて、彼が暴れるのを見られるのが嬉しいから、俺はカッコつけたりするのやめようと思って、それまでやってた勘違いしたエレファントカシマシみたいなバンドはやめようと思ったんです。そしたらその初ライヴがレッドクロスのスタッフさんからめちゃくちゃ褒められるし、梶原や本村、Gateballersの(濱野)夏椰とか、挫・人間の夏目(創太)とか、みんな良く言ってくれるし。
そうやって水面下で知ってくれてる人が増えてきた。それが2年くらい続いて、褒められることで閉じていた俺の性格がだんだん開いてきて、人と関わるのが楽しくなってきて。でも相棒みたいなやつ(前任ベーシスト)は褒められても喜ばないし、俺よりも頑なで閉じたままだった。そこでだんだん俺と反りが合わなくなってきて、そんな2人をボケーっと見てる出口(笑)」
――2人は仲悪かった?
出口「僕の前ではそんなに見せなかったですけど。スタジオ内でそういう時がちょっとあったかな……」
岩井「その頃、俺は踊って(ばかりの国)の下津(光史)ちゃんとかとよく遊んでて、彼らとのいろんな物事に対する考え方も(前任ベーシストとは)かなり違ってるし。最終的には、2018年の5月11日のGARAGEのライヴ直後に、俺が彼に楽屋でボコボコにされちゃうんです」
川井「普通に傷害事件……」
――何があったんですか!?
岩井「きっかけは、そのライヴに来てた俺の友人のことが気に食わなかったみたいですけど、いろんなことが溜まってたんでしょうね。気付いたら殴られ続けてて、血まみれになって」
出口「最初何が起きたか分からなくって」
岩井「殴られながら、曲が作れなかったそいつに〈お前、曲を作れないのに俺を殴って幸せなのかよ〉とか言ってましたね。最後に〈悪かった〉って言ってきたけど、〈自分を救うのはそんな方法じゃない。お前の心のなかのロックンロールを信じろ〉って言ったら最後にもう一発殴られて。
……その時は〈バンド終わったな〉って思ったけど、すぐ次のライヴも決まってたから、血まみれで出口と喋ってて。出た結論は〈止めちゃいけない〉だったんですよね。初めて『シャイニングラブ』っていうCDも出して納得いくものが作れたし、周囲からの評判も良くて、その頃から〈カッコいい音楽を作った責任〉があるよなって考えるようになってきて。自分のエゴでもうやらないなんて、よくないなって。もし出口がやらないって言ったらやめたかもしれないけど、〈やりましょう〉って言ってくれたし」
出口「言いました……」
岩井「じゃあ2人でやろうってことで、2か月くらい2ピースでやってたんです。ホワイト・ストライプスをひたすら聴いて、曲のテンポを落としたりして」
――そうだったんですね。
岩井「話は前後しますけど、3ピース時代から渋谷で路上ライヴをやり始めて、そこで一時期交流がなくなってた川井ちゃんと再会するんです」
川井「就職して福島に行ってたんですけど、仕事を辞めて、渋谷でバイトしてて。バイトが終わって駅前に行ったら大きな音を出して叫んでるやつがいて、聞いたことある声だから見てみたら岩井君で。でも僕が知ってるのはヴォーカルだけの岩井君だったんで、ギターなんて全く弾けないと思ってたらすごいうまくて。最後まで観入っちゃって声かけたんですよね。そしたら全然変わってなくて、それからまた遊びに誘ってくれたりするようになったんです」
岩井「よく2人で遊んだね。朝まで音楽鑑賞して一緒にクラッシュ聴いたり、銭湯行ってビールかっ食らって昼寝するみたいなね。で、ある日、俺が顔ボコボコになってて」
川井「3人のライヴはちょくちょく観に行ってて、前任のベーシストとも普通に喋ってたから、まさかそんな話が出てくるとは思わなくて。でもボコボコの顔で来て、笑顔で〈川井ちゃんボコボコにされちゃったよ!〉って言うから、何とも言えない気持ちになりましたよ(笑)」
岩井「ボコボコにされて一発も返さなかったことを褒められたね。で、2人体制になるから、川井ちゃんに観てもらおうと思って」
川井「2人になったライヴに、物販とかの手伝いをしがてら観に行ったんですよ。そしたらめちゃくちゃカッコよくて。3人でいる時よりカッコよかったし、物販も売れたし、当時僕がやってたバンドに〈ヤバい、早く曲作んなきゃ。僕も頑張ろう〉とか思わせるような力がありましたね。それからしばらくしたら、たぶん2人で物足りなさみたいなものがあったのか、岩井君から〈ベースが足らないな〉って話が出て」
岩井「でも一応、前任のベースはいまでもBurnQueを辞めてはいないんです。いつでも戻ってこれるようにしておこうってことで、設定上は放浪中ということになってます。とはいえ、周囲の応援にも応えたかったし、さっき言ったように良い曲を作った責任もあると思うし、なんとかバンドを形にしたくて。そんな時に、毎週遊んでる川井ちゃんをパッと見たら〈川井ちゃんってベーシストだな〉って思って(笑)。遊んでて楽しいし、よく俺の曲褒めてくれるしで、試しに遊びでスタジオに入ってみたんですよね。でも一度は保留にしたね」
川井「俺、2回くらい保留にしたよね。まず2人でカッコよかったし」
――まあ、ホワイト・ストライプスにベースが入ったら邪魔かもな……。
川井「そうなんですよ」
岩井「でも、〈この曲、本当はこうじゃないしな〉みたいなのもずっとあったんですよ。“マディウォーター”なんてBPM半分くらいでやってて。前任のベースよりちゃんとベースらしくて、合わせたらドカーンってなったし」
川井「2人バンドっていう特異性もあったし、状態も良かったし、そういうのが無くなっちゃったり見られ方が変わったりするのは嫌だったから、2回保留にしたんです。で、3回目の時に、物販も売れてたから、〈俺、売れるために入る!〉って言ったんですよね。そしたら〈バカ!〉って言われて(笑)」
岩井「たまたまその時は物販が売れたけど、客ゼロなんて当たり前だし、普段はいまより全然お客さん少なかったから! 〈本当センスないこと言うな~〉って思いましたよ(笑)。こんなバンドに入って売れるなんてあり得ない(笑)。でもそんなこと言いながら、この3人で初めてライヴをやったのが去年の8月か」
川井「ちょうど1年ですね」
岩井「そこから年末まではダラダラしてて」
川井「もともと傍から見てたから、ライヴが強いのは知ってたし、とにかく知ってもらうためにもライヴに出る回数を増やそうと思って、月7本とか出てたね。でも鳴かず飛ばずで。よく出口君には〈ベースが足りない〉って言われたなあ。この人ドラムスに関してはすごいミュージシャンなんですけど、バンドの大枠で考えたら結構バカで(笑)、すっごいベースの音を増やそうとすんです。〈ここ止めちゃダメです。鳴らしてください〉って」
――自覚はあります?
出口「覚えてますね……」
岩井「その前に、俺が〈ブレイク(※演奏の空白)はだせえ〉とか何年も言ってたんだよ」
川井「それを間接的に伝えてたの!?」
出口「ギターのフレーズに変に絡ませないようにした方がいいと思って……」
川井「バッキングとしてずっと鳴ってたほうがいいってこと?」
出口「そのほうがノレるっていう意識はありました」
川井「最初のころはそういうズレがたくさんありましたね。11月くらいまではそんな感じでライヴに出まくって、〈来年どうしようか〉ってなった時に、また路上を試験的にやり始めることにしたんです。最初は週1~2くらいかな。そしたら意外とお金にもなったし、知ってくれる人がめちゃくちゃ増えたし、リスニング環境も演奏環境もめちゃくちゃ過酷ななかで毎回練習することにもなるし、演奏の一体感が良くなっていくしで良いことずくめだったんですよね。だから年末には〈来年は毎日やるぞ!〉とか言ってて」
――それであれだけ路上でライヴしてるんですね。〈火山盤〉を毎月リリースすることになったのは?
川井「岩井君が〈いちばんバカなことしよう〉って言って、みんなでバカなアイデアをめちゃくちゃ出したんです。で、〈毎月CDを100枚売ったらどうなる?〉って言って、俺がエクセルでかかる費用とか収支を計算したんだよね。そしたらその試験段階の数字でもクリアできそうで」
岩井「〈試験的にやってダメならやめよう〉のハズが、意外と稼げた(笑)」
――じゃあいまは収支はプラス?
岩井「バンドの活動に自分のお金は払ってないです」
川井「スタジオ代と駐車場代、CDプレス代とPV代と……全部自分では払ってないです」
岩井「弦の代金とかもね」
川井「まずCD100枚っていう数が馬鹿げてたから、絶対厳しいだろうと思ってたよね。みんなもできないと思ってたし、まあ、できなきゃできないでバカ話で終わるし、できたらみんなの目も変わるだろうし」
岩井「誰も損しないバカな目標だったんですよね」
――でも、CDを100枚売るって結構大変ですよね。
岩井「周りには〈正気じゃない、やめろ〉って言われたね(笑)。〈いままでお前、通算何枚のCD売ったんだよ〉って。『シャイニングラブ』は2017年10月に500枚プレスして、その時は450枚くらい売れ残ってたし(笑)。〈バンドを安売りしないで〉とかも言われたけど、〈バッキャロー! 安売りでも何でもしなきゃ誰にも知られないだろうが〉〈他のバンドの何倍も泥食わなきゃダメなんだ!〉って言い返して。
26歳だったから、〈ロックスターは27で死ななきゃ〉って思ってた俺は年齢のことも意識し始めて。でもこの年でまだ何も名盤作ってないし、伝説のライヴもしてないし。ってことは27で死なないってことだから、頑張って生きて行かなきゃいけないんだって思って。けっこう周囲に、下北沢では有名だけど一般の人は知らないみたいな、ちょっと年いってる悪いモデル例が多かったのもあって。それって俺が中学生の時に思ってたカッコいいロックンローラーじゃないよなあって。だから泥すする気になって、いまはあんまり遊んだりはしてないですね」
――出口さんは毎月CDを100枚売るって聞いてどう思いました?
出口「ああ……頑張ろうって思いました……」
一同「(笑)」
――バカと言われようとも。
出口「はい……僕は基本的にドラムスが叩ければそれでいいので」
川井「でも、こういうのは出口君がいちばん得意ですよ。バカげた発案に対して絶対ノーと言わないから」
――路上でやる恥ずかしさとかは?
出口「恥ずかしさはなかったですね。ドラムスの前に座るとスイッチが入るので」
川井「バカげたアイデアを止める人がいなくて、俺だけの時とかあるもんね」
岩井「出口なんて〈川井さん、なんでそんな抵抗するんですか?〉って言うもん」
出口「〈ライヴに裸で出よう〉って言った時だけ、一回断りましたね……」
一同「(笑)」
――その後の火山盤の売れ行きはどうだったんですか?
岩井「最初はヤバいかもって思ったけど、場所を渋谷から新宿に変えたら売れるようになって。〈1月盤〉はそんなギリギリにならなくても100枚売れて」
――僕も買いました。
川井「2月も、月初はダメだったけどその後めちゃくちゃ売れて。3月は月初のジンクスもなくっていきなり売れて、この計算だと、2か月に1回レコーディングしてたのを、1か月に1回できるぞってなって」
岩井「〈1月盤〉、〈2月盤〉はGARAGEで1日に4曲録って、しかも重ね(多重録音)もナシの、歌も含めた一発録りだったんです」
――曲は最初から24曲(収録曲2曲×12か月分)あるんですか?
岩井「もともとのストックも多いけど、新曲もありますよ」
川井「7月録った曲(“直球”)は6月末に出来た曲だったり」
――その新曲の練習はいつするんですか?
岩井「路上です(笑)。まあ週一でスタジオには入ってるんですけど」
川井「曲作りをそこでやって、その日の路上から練習兼ライヴ(笑)。歌詞さえ出来ちゃえば終わりです」
岩井「8月盤の“5ミニッツ”もそうだね。出来て3日くらいでそのまま録音(笑)」
――ワンマン・ライヴのチケットも路上で手売りして、ワンマンからは〈火山盤ベスト〉『火山Burn』をリリースして。
岩井「ここがいちばんおもしろい話だ。もともとワンマン・ライヴをやるとだけ決めていて、そこに向けて、〈1月盤〉から〈6月盤〉までの曲を全部集めた12曲で〈火山盤上半期〉っていうのを出そうと思ってたんですよ。でも聴けば分かるんですけど、火山盤の初期といまではクオリティの差がすごすぎて(笑)。坪井ちゃん(坪井卓也/火山盤のレコーディング・エンジニア、本業は下北沢GARAGEのPA)はもともとレコーディングをしたことがない人で、なかば強制的にやらせてて。いまはだんだんとおもしろくなってきたみたいで、それに比例して音の質も良くなってきたんですよね。それで、いままでの火山盤を並べて聴いてみたら、好きだけど、録音状態が違いすぎると思ったんです。なので〈上半期〉を出すのはやめて、通常の〈火山盤〉だけを売ればいいかと思ったんです。
ところがそこで、4月くらいからBurnQueに関わってくれるようになったヒデさん(田中ヒデ/BurnQueのサポート・スタッフ)が、もうワンマンまで1ヶ月を切ってる時に、〈せっかくワンマンやるのに、(火山盤以外の)音源を売らないの!?〉みたいに言われて、説得され、〈何とか音源を出そうよ〉っていろんなところを当たってくれたんです。レコーディングはSo Sorry,HoboやGateballersもお世話になってる伊豆のスタジオ(IZU STUDIO)がたまたま空いてたし。最初3~4曲だけ録るつもりが、エンジニアのヤスさん(濱野泰政)に〈いまのBurnQueならもっと録れる〉とか言われてね。ヤスさんは出口君のドラムスをすごい好きでいてくれて、〈出口君のドラムスがすごいことになってるから大丈夫。ベースはうまいやつが入ったんだろ。あとはお前がうわーっと叫べ。やれる!〉とかって言われて、3日後の7月23日と25日にレコーディング(笑)。結局〈火山盤〉から6曲を新たに録り直しました」
――ワンマンが8月11日なのに、7月末にレコーディング!? ちゃんとプレスしたCDでしたけど……。
岩井「それは全部ヒデさんの功績です。Tシャツ作るって言って何もしてなかったのもヒデさんが手配してくれて」
川井「ありがとうございます!」
――スケジュール的におかしいですよね。『火山Burn』は演奏も音も良くなっていて、〈1月盤〉からちゃんと聴いてるから、録音を含めての成長を感じたんですよね。
岩井「酒井さんに最初音を送ったら反応がおもしろかった(笑)。送って数時間後に〈えっめちゃくちゃいいじゃないですか!〉って(笑)」
一同「(笑)」
――だから、普通のレビューを書くだけじゃもったいないと思って、いまこうして話を聞いているわけで(笑)。それに、路上だとこれから夜行バスに乗る地方の人とか海外の人もよくCDを買ってるのに、〈BurnQue〉で検索してもあんまり情報が出て来ないのがもったいないと思ったんですよね。
一同「あー……」
岩井「たしかに!」
――まあ海外の方用の翻訳は各自でしてもらうとして(笑)。それにワンマンにお客さんがすごい来てたんで。あのお客さんはみんな路上で集めたんですよね。あのお客さんたち、みんなBurnQueのこと知ってるのに、バンドのことを何も知らない。だから伝えたくなったんですよね。
岩井「ありがたいですね。ワンマンのチケットは路上の手売りが7割で、当日来てくれた人が3割。目標の人数にはちょっとだけ足りなかったけど、それでもすごい多くの方が来てくれて。ウチの両親も来てくれました。ウチはロックが好きな家で。これは全然関係ない話なんだけど、ウチのオカンはT島T男の元カノなんですよ。高校生の頃から●●●●●(渋谷系某グループ)に入るか入らないかくらいの頃まで付き合ってて。ウチのオヤジは〈仙台のZIGGY〉って呼ばれてた人だし」
一同「(笑)」
――最初に自分たちを〈火山〉って言い出したのは誰なんですか?
岩井「俺です。去年まだ2人だった時だね。〈火曜日〉か何かの誤字で〈火山〉って打ったらあの絵文字が出てきて、吹き出して(笑)。意味わかんないのがおもしろくて使ってるうちに、広まっちゃったんです。MikikiのBASEMENTBAR連載(「下北沢で噂のあいつら」)で、こっけさん(元・BASEMENTBAR副店長/現・下北沢HALF店長)がBurnQueのことを〈バンド名に基づいてライヴのことを火山と呼んでいる〉って書いてあったんですけど、バンド名は〈バーンとした曲とキューっとした曲をやりたい〉から付けただけで、火山とは関係ないですから(笑)。今日まで訂正しそびれてますけど」
――(笑)。でも火山って表現がすごく言い得て妙だと思ってて。例えば感情が無い人や、実は鬱屈してドロドロしたものがあったりする人たちが3人、音楽でそういう感情をドッカンドッカン爆発させてるし、それを観てるとこっちもなんか熱いものが一緒に出てくるんですよ。MCで〈BurnQue、火山です〉とか言われると最初は〈なんだそれ〉と思うけど、なんか説得力がある。
川井「だけど、お客さんにはどんどん優しくなくなってますよ。去年まではMCで〈これみなさんが観てるのはライヴじゃないんですよ、火山なんですよ〉〈火山って意味わかんないよね!〉とか言ってたのが、〈BurnQue、火山です、やります!〉みたいになっちゃって。隣で〈何言ってんだろコイツ〉みたいに思うことは割とあるんです(笑)」
岩井「でもTwitterで〈本当に火山みたいだった〉とかって書いてあると、自分で冷静に〈火山は山のことだけどなあ〉みたいなノリツッコミしてますよ。ライヴの告知で〈まさに演奏が火山!〉って書いてあって〈演奏が火山ってどういうことやねん〉って」
――自分で言ってるくせに(笑)。
川井「そうなんですよ。この人〈火山はギター弾かねえぞ〉とか言うんです(笑)」
――Twitterで〈今日の路上はお休み、休火山です〉とかうまいこと言ってたり(笑)。あと、路上ライヴでヲタ芸をされる方いますよね。こないだのワンマンでも最前にいて。あれはどなたなんですか?
一同「(笑)」
岩井「路上にある日突然現れてヲタ芸を打つようになった人で、長年路上を観ているらしく、おまわりさんが来る時間とか、良い情報をくれるんです。もともと路上しか観ない人らしいんですけど、BurnQueの路上ライヴでヲタ芸をしてたらその人のほうが外国人から1000円もらってて(笑)。その1000円で俺らのワンマンのチケットを買って来てくれたんですよね(笑)。最近はいろんなおもしろい人とか怪人が集まってきます」
――外国人の方の割合も多くて。
岩井「〈俺はロックを分かってるぞ〉みたいな外国人のおっちゃんがいきなり〈LA! LA行きな!〉って言ってきたり。〈ココはあんたたちには狭すぎる〉って。いやいや、ここが狭いんじゃダメだろって(笑)」
――それから、ワンマンで発表されましたが、今度は実際に火山のある土地に行って路上ライヴをするということで、お客さんの投票で伊豆大島に決まったんですよね。
岩井「ヒデさんのアイデアです(笑)」
川井「僕らはバカだけど、意外とそういうブッ飛んだ発想は出てこなくって。ワンマンでは次のワンマンの予定でも発表しようかと思ってたんですけど」
岩井「昔よくライヴに行ってたももクロがそんな感じだったからね。でもそんなの俺らがやっても意味ないし、そういう時にヒデさんがおもしろいことを言うんですよ。じゃあ酒井さんは伊豆大島のライヴ・レポート書いてくださいね(笑)」
――行かないよ(笑)! ドラムセットも持って行くんですか?
出口「持って行きますね」
岩井「そこでもいろいろ企画しているんで」
~店の閉店BGMが流れる~
岩井「ちょっと! まだ『火山Burn』(※)の曲解説してないじゃないですか!」
※『火山Burn』はライヴ、路上ライヴ、下北沢GARAGEの2F SHOPで販売中
――話が長すぎて忘れてましたね。でもまあBurnQueの曲にあんまり解説はいらなくないですか(笑)? 何か言っておきたい曲があればどうぞ。
岩井「じゃあ1曲1分で! “サンダーロード”はもともと、俺と前のベースが交互に歌う曲で、俺は俺のことを歌ってて、彼のパートは彼のことを歌ってたんですよ」
――出口さんは〈俺のことも書いてくださいよ!〉とは言わなかったんですか?
一同「(笑)」
出口「そこは……まあ好きにしてください(笑)」
岩井「この人が地球でいちばん興味ないのが歌詞だから(笑)。一度歌いながら叩かせたら俺がまったく書いてない歌詞を歌い出したしね。“川を渡る”は、作った当時、去年の4月くらいの俺の人生の歌です。元は中森明菜の〈私は泣いたことがない~〉のリズムで歌謡曲にしたかったんです。だからあれはオルタナティヴ歌謡曲だね」
出口「ギター・ソロに〈パン!〉って音が入ってるんですけど……あれはスリッパの音っていう」
――お、出た! So Sorry,Hoboのインタヴューでも話題に出てきたスリッパの音!
岩井「So Sorry,Hoboの“電気泥棒を忘れない”がきっかけでスリッパが好きになって(笑)。ヤスさんがスリッパを楽器として使う達人で、カネコアヤノの曲にもよく入ってます。それから次の“25”は酒井さんの食いつきそうなエピソードがあって、唯一、津野米咲(赤い公園)が好きって言ってくれた曲ですね。いつもライヴに来ると〈あの曲やって〉って言われます」
――おおっ!
岩井「でも、『火山Burn』をレコーディングした後に送ったら、返事来なかった(笑)」
一同「(笑)」
――あの人は……(笑)。
岩井「〈男の子のロックバンドって感じでいい〉みたいなこと言ってくれてたのに(笑)。次の“情熱大陸”は俺のいちばん好きな曲ですね。音楽的にはストロークスをやろうと思って、おおもとはレゲエだったんです。まあレゲエに対するセンスが俺らにはなかったんですけど」
店員「失礼しま~す、そろそろ閉店のお時間です」
――ああ、店閉まっちゃう!
岩井「“マディウォーター”はストーン・ローゼズをやりたかった。ジョン・スクワイアがジミー・ペイジをやってるやつね。“卒業”は自分でいい曲だと思っていて、この曲で終わりたかったんです。なんかしみったれてていいんだよね」
川井「去年の年末に作ってね」
岩井「〈みんないなくなっていくんだね〉って」
川井「いろんな人が去って行く時と重なってたりして」
――じゃあ、僕たちもそろそろ去りましょうかね(笑)。長時間ありがとうございました。伊豆大島の路上ライヴの結果も楽しみにしてます!