5. 『KiCK i』が描く未来と希望:
複数人格を持った歌姫とサイバーパンク的世界
今作『KiCK i』は、男性から女性へのトランジションという転換点を通過しながら、ノンバイナリーを自認するアルカの新しい自己認識を出発点とする作品だ。だが、これは単に自分語りの作品ではない。自己の流動性・可変性そのものを、作品を通じて提示しているのだ。
今作のリリース前に発表したシングル“@@@@@”では、アルカ自身とフレデリック・ヘイマン(Frederik Heyman。“Nonbinary”のMVなどを手がける写真家/映像作家)とで生み出した〈Diva Experimental〉という存在をヴィジュアルに掲げており、この〈Diva=歌姫〉というコンセプトは、今作にも引き継がれているように思う。前作では自身の声をメランコリックに用い、その当時の素直な感情――いま思い返せば、真の自分が周囲に理解されない葛藤に対する憂鬱だったのだろう――を吐露していたが、対する今作では、トランス女性でノンバイナリーである〈真の自分〉を表現するために、声や歌を用いているからだ。
今作には自身の歌唱をはじめ、ビョーク、ロザリア(ROSALÍA)、ソフィー(SOPHIE)、シャイガール(Shygirl)がゲスト・ヴォーカリストとして客演し、作品全体を通じて様々な声が入り乱れている。まるで、〈Diva Experimental〉というアバターを通じて、イタコのようにゲスト・ヴォーカルを〈降ろして〉歌わせている、といった風にも感じられはしないだろうか。
また、1曲の中でも、アルカ本人が女性的な発声と男性的な低い声を使い分けるなど、あたかも複数の人格が1つの作品の中で入れ替わり立ち代わり現れるように感じられるのが今作の特徴だ。
と同時に、楽曲やサウンドはこれまでになく開放的で野心的である。これまでのアルカ同様、不穏さを漂わせるトラックメイクではあるものの、“Mequetrefe”や、同じくラテン系のロザリアが客演する“KLK”では、レゲトン風の情熱的なメロディーやビートさえ聴くことができる。
こうした表現からは、ジェンダーや自己認識、価値観が、1人の人間の中で一貫していないことを認識しながら、むしろそれを祝福する様が感じ取れるだろう。
“@@@@@”や今作のアートワークが、機械と肉体の融合を思わせることも印象深い。特に今作のジャケットは、前作収録の“Reverie”のMVで義足のようなものを身につけてよろめいていたアルカとの連続性を見て取れるが、今作では一転、機械を身につけ堂々とした佇まいを見せている。
肉体そのものに信頼を置いていたアルカだが、機械は、肉体以上のスピードで常に更新され得るもの。また同時に、多くは着け外しが可能だという側面もある。それが肉体と融合したならば、人間は常にアップデート可能な自由を得る……のかもしれない。仮にアルカがそう考えたのだとしたら、『KiCK i』にはまるでフィリップ・K・ディック作品のようなサイバーパンク的な世界が広がっているとも言えるだろう。
とはいえ、今作が描くのはディストピアではない。ヴィジュアルも含め、今作でのアルカは、〈人間は常に流動し、変化することができる〉と聴き手に気づかせることを通じて、本当のアイデンティティーが社会的な規範から抑圧されているように感じている全ての人に、希望を与えようとしているのではないだろうか。
様々なメタファーをはらみながら、私たちに自己の可変性を提示している今作だが、実はどうも3幕構成のシリーズの1作目なのだとか。次作ではどんな姿を見せてくれるのか、すでに今から想像が掻き立てられるばかりだ。