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©2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

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 「ドライブ・マイ・カー」は〈声の映画〉である。その後の本編で描かれる〈2年後〉のパートで、死者は、ほんの一瞬、夫の悪夢めいたインサートで登場するに過ぎない。しかし、彼女は〈不在の中心〉として映画全編を確実に支配する。それがすなわち彼女の〈声〉の呪縛なのだ。その〈声〉とは、端的にいって、原作にはない〈音(おと)〉との名前を付与された妻が読み上げる、チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」のテキスト、カセット・テープに録音された音声である。それは映画前半からすでに僕らの耳に届き、それ以降も断続的に流れる。運転しながら車内でそのテープを繰り返し聴く作業を家福は妻の生前も死後も自分に課している。感情を押し殺すように抑揚を欠いた彼女の声が、ある種の即物性や不気味さを醸し出す。〈2年後〉の本編では、広島の演劇祭の依頼で「ワーニャ伯父さん」の上演に臨む家福の演出ぶりが描かれるが、そこでの本読みから明らかになるように、「上手くやらなくていい。ただテキストを読めばいい」は家福のメソッドであり、濱口自身のそれでもあるだろう。そこで聴かれる感情を欠いた声は、その執拗な反復を通じ、まるで〈複製された声〉を目指すかのようだ。

 死者の声を聴かされつつ僕らは、〈声〉とは何かと考えざるを得なくなる。それは所有や同一性の概念を撹乱する何かであるだろう。こうした感慨を誰もが共有するものと勝手に推測するが、僕は録音された自分の声を聴くのが嫌いだ。たとえば、誰かにインタビューした音源を文章に書き起こす際に何度も自分の声を聴かざるを得なくなる苦痛。何度となく経験してきた仕事の一環であるにもかかわらず、聴きたくないとそのたびに思う。自分の声であることは否定できないが、それでもそれが自分の声であるとは納得し難い。そうした違和感は、(録音された)声が〈他者〉であることに由来するだろう。機械的に複製された〈声〉は、それ自体、自律的になる。僕の〈声〉であることを止めて〈他者〉になる。だから、自分の声を聴くこととは異様な体験である。 映画は冒頭から〈音〉の声に支配されていたし、そうした事態は彼女の死後も変わらない。生身の体としては死んだ存在が、声を吹き込んだテープが再生されるたびに文字通りの再生を果たす。複製された声は〈他者〉であり、かつてその持ち主であったはずの彼女の死と無縁のものとして存続する。そして、それは広島でも家福や彼の代わりに車を運転することになる若い女性によって聴かれ、その幽霊めいた存在が彼らにとり憑き、呪縛する。まるで初恋の相手の部屋に女子高校生が残す痕跡、〈印〉のように。それはいったい誰の〈声〉なのか……。

 ジル・ドゥルーズは、サイレント映画に〈音声〉が加わることによる映画の変貌について書いている。「不可避的にトーキーは、一見最も表面的で移ろいやすく最も『自然的』でない、あるいは構造化されていない社会的形式を、特権的対象とするほかなかった。すなわち、他者、異性、異なった階級、異なった地域、異なった国民、異なった文明との遭遇。前もって存在する社会構造が稀薄になるほど、沈黙した自然的生ではなく、必然的に会話を経る社交性の純粋形態がいっそう解き放たれるだろう」。だから映画における〈会話〉の本質とは、「分散し独立していると想定される人々、その場面に偶然通りかかった人々の間に、相互作用を確立すること」であり、そこでは「会話が相互作用のモデルとして役立つのではなく、離れた人々の間や同一人物における相互作用が会話のモデルとなる」。「ドライブ・マイ・カー」では、手話を使う聾唖の韓国人女優も含めた、多国籍な俳優たちによる多言語演劇の生成過程が描かれる。もちろん俳優らのあいだで前もって構造化された〈社会的形式〉があるわけがなく、本作での演劇は、そんな社会構造の稀薄さや〈社交性の純粋形態〉の呈示に向けて導入されるのだろう。 ある関係や集まりが前提としてあり、潤滑油として会話が交わされるのではない。関係=相互作用は会話と共に生じるのであり、僕らが本作で目にするのは、必然的に会話を経ることになる〈社交性の純粋形態〉である。〈複製された声〉や俳優によって読み上げられるテキストは、〈他者〉や〈異なった文明との遭遇〉であり、「その場面に偶然通りかかった人々の間に、相互作用を確立する」。こうした厄介な議論をあえて持ち出すのは、国際的に名の通った現代日本の小説家の短編を原作とし、19世紀末に書かれたロシアの文豪の代表作を随所に引用する本作が、小説や演劇に対するリスペクトの念をあらわにしながら、それでもあくまでも刺激的かつ現代的な〈映画〉以外の何ものでもないという当然の事実をあらためて強調し讃えたいからだ。ドゥルーズによれば、「それまで演劇からも小説からものがれていた」何かが、音声を獲得した映画によって発明され、それが〈音声的会話〉なのである。

 本作の登場人物らは〈声〉の呪縛から逃れることができるのか? ある意味では、イエスである。少なくとも彼らは、声にまつわる〈謎〉や〈秘密〉、その神秘化から自由になるのだから。しかし、別の意味で、あるいはより本質的な意味で、謎や秘密を欠いた〈声〉の呪縛に囚われたまま、僕らはそれと共に生きなければならない。こうして本作はチェーホフの戯曲の終盤と感動的なまでの共鳴を果たすだろう。人生に絶望する余り、なんてつらいんだ、と嘆く初老の男性ワーニャに対し、彼の姪ソーニャはこう応じる。「生きていきましょう。長い長い日々を、夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう」。このいかなる謎や秘密、神秘化をも介在させることのない、平板で透明な言明の偉大さならざる偉大さ。そしてそのテキストがさまざまなかたちで〈音声的会話〉に変貌を遂げ、分岐や変奏を重ねる〈出来事〉としての映画の魅惑……。

 


寄稿者プロフィール
北小路隆志(きたこうじ・たかし)
映画批評家。京都芸術大学映画学科教授。新聞、雑誌、劇場パンフレットなどで映画批評を中心に執筆。著書に「王家的恋愛」、共著に「エドワード・ヤン 再見/再考」、「アピチャッポン・ウィーラセクタン 光と記憶のアーティスト」、「ジャン=リュック・ゴダール(フィルムメーカー21)」、「岩井俊二:『Love Letter』から『ラストレター』、そして『チィファの手紙』へ」などがある。

 


FILM INFORMATION
映画「ドライブ・マイ・カー」
監督:濱口竜介
原作:村上春樹「ドライブ・マイ・カー」(短編小説集「女のいない男たち」所収/文春文庫刊)
脚本:濱口竜介、大江崇允
音楽:石橋英子
出演:西島秀俊 三浦透子 霧島れいか/岡田将生
配給:ビターズ・エンド(2021年 日本 179分)
2021年8月20日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開
https://dmc.bitters.co.jp/