©2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

文学や演劇の名作に尊敬の念を表明しつつ、映画における〈音声〉の可能性を探究する、〈声の映画〉の素晴らしさに震撼する。

 濱口竜介は、このカンヌで話題をさらった新作でも前作に引き続き、ヒッチコックによる異様な名作「めまい」を想起させる映画を構築する。すなわち、確実に主要登場人物の一人と思われた存在の唐突で早すぎる退場、さらには、にもかかわらず、その〈不在〉がその後の物語の推移に深い影を落とし続ける……といった構造の呈示である。前作「寝ても覚めても」では東出昌大演じる男性が観客と恋人の前から何の前触れもなく早々に行方をくらましたが、「ドライブ・マイ・カー」では主人公の妻(霧島れいか)が序盤で突然の死を迎える。前作では、その後、正反対の性格の人物でありながら同じ外観を持つ存在――東出によって演じ分けられる〈一人二役〉の発想も「めまい」を思わせる――が僕らの前に現われたが、本作での〈不在〉のあり方やその影響の及ぼし方はこれも極めて映画的かつ独創的なもので、そこにこの映画の魅惑が孕まれる。

 村上春樹の同名の短編小説を原作としつつ、同作が収められた短編小説集「女のいない男たち」からの別の2編も緩やかな合流を果たすかたちでほぼ3時間の尺の堂々たる長編映画が形成される。主人公の家福(西島秀俊)は、世間でそれなりに顔や名前を認知された〈舞台俳優〉と原作で設定されるが、映画では、むしろ演出家としての役割に重きが置かれ、その演出の特徴である〈多言語演劇〉で国際的な注目を浴びる存在であるようだ。

 映画は、窓越しの夜明け前の町や山並みを背景に、裸の女性のシルエットを捉える室内のショットで幕を開ける。家福の妻である彼女は、女子高校生が初恋の相手である同級生の家に空き巣を繰り返し、そこに自分の身に着けていたものを〈印〉として残す……といった奇妙な物語を夫に語って聞かせる。翌朝、本作の〈主役〉といっていい赤い車で家福が妻を職場に送り届ける際、先に彼女の口を介して語られた物語が反芻される。脚本家である妻は、性的な交わりの際に〈物語〉を紡ぐが翌朝には内容を覚えておらず、聞き手である夫の記憶を頼りにそれを脚本化する作業を習慣としているのだ。別の日の朝、海外公演のために空港へと車を走らせたもののフライトがキャンセルになり東京郊外らしき自宅に引き返す家福。そこで彼は、数時間前に別れたばかりの自分の妻が別の男性とセックスしている光景に遭遇する。そんなことはとうにわかっていたという諦念の表れなのか、背中しか見えない相手の男性の正体を突き止めようともせずにその場を立ち去る家福だが、ある夜、自宅に戻ると妻が意識を失って倒れており、場面はそのまま強い雨のなかでの彼女の葬儀に移行する。あまりに唐突で驚きを禁じ得ない展開。突然の〈出来事〉が家福の生と映画の物語に亀裂をもたらす。僕らがそれまで見てきたのは、長いプロローグもしくは夢であったのだ……といわんばかりに。しかし彼女は本当に死んだのだろうか?