映画の〈労働〉をめぐる創造的な考察にしてスリリングなドキュメント!

 いま最も国際的な注目を浴びる日本の映画作家の一人、濱口竜介による映画論集が刊行された。レクチャーを集めた「1」で提起される映画の原理や方法論が批評集成である「2」で応用(反復)されるといってもいいし、これらをまとめて濱口竜介論の準備(濱口映画の鑑賞の手引き?)として読むのもいい。〈著者あとがき〉に次のような率直な記述がある。「自分はあくまでも「映画をつくりながら見る人」もしくは「映画を見ながらつくる人」として文章を書いてきた。だから、他の映画監督や作品について書かれた文章も常に、どこか自分自身の制作と響き合っている」。

濱口竜介 『他なる映画と1』 インスクリプト(2024)

濱口竜介 『他なる映画と2』 インスクリプト(2024)

 それにしても、「結局、自分は自分のため以外に文章を書いたことがない」との言明も読まれる書物が、それでも〈自分語り〉を軽々と回避しえたのはなぜか。それは濱口にとっての映画が――自身の監督作も含め――〈他なるもの〉であるからで、そうした倫理的姿勢が本書を貫くからだ。では、映画はいかなる意味で〈他なるもの〉なのか。それこそ本書で変奏が繰り返される主題だが、カメラや録音機などの〈機械〉によって撮影/録音され、映写機で上映される、そんな〈テクノロジー・機械〉を前提とするもの、それが映画だからだ、との事実があらためて出発点に置かれる。これだけだと味気ないが、かつて自分はいわゆる作家性の強い映画、商業映画とは異質な作品を見るたびになぜか寝てばかりいた……との〈自分語り〉を介した説明となると他人事でなくなる。それなりの決意で学校や職場からの帰りに映画館に足を運んだものの快適な温度に設定された暗闇に身を沈めるなかで眠気に襲われ、大半を見そびれるか忘れてしまう……。そんなありふれた経験を濱口は、それこそ映画が〈他なるもの〉であるからだとする。映画=機械は、僕ら生き物の〈関心〉を度外視した次元で自動(機械)的に上映され、終わりを迎える。そんな機械の〈無関心〉に根ざした「非‐生き物的な時間」との出会いを映画は観客に提供し、その〈他性〉こそ〈映画の本性〉である。僕らが映画館で寝てしまうのは、本性の異なる両者(生き物/機械)の出会い(損ね?)によるものなのだ。

 では、それら〈映画の根本的な性質に根ざした映画〉は、観客が寝入るのも無理のない〈退屈な映画〉なのか。濱口はサービス精神旺盛な商業映画を貶める一方で、高尚な(?)〈退屈な映画〉を称揚する論者なのか。それが本性である以上、あらゆる映画に〈退屈〉(非‐生き物的な時間)が孕まれる。〈ハリウッド映画〉は、その〈退屈〉を抑圧するための方法論(〈因果の連鎖〉=物語=生き物的な時間)を開発し、洗練させ、世界に波及させたが、それは同時に映画の〈他なるもの〉の抑圧につながり、その結果、輪をかけて〈退屈な映画〉を自堕落に量産することにもなりかねない。そうしたパラドクスの外に出ること。それが〈他なる映画〉の企みであり、相米慎二の仕事が実例として挙げられる(「2」)。なるほど(とりわけ初期)相米映画は〈退屈〉など恐れもしない勇敢さで物語を機能不全に追いやるが、〈退屈な映画〉こそ素晴らしいと居直る倒錯的な姿勢をも排する。相米の映画における〈退屈〉は、〈映画を退屈なものにすることを是としないスタッフを触発〉し、〈退屈を殺すために導入された退屈〉であり、偉大な映画とは、〈退屈〉を自らの裡に孕みながら、それでも〈退屈との戦い〉が繰り広げられる戦場なのだ。

 この点に関わり興味深いのが、ところどころで現れる〈労働〉やそれに類するタームの選択である。映画とは、演出家と演者、そして観客という三つの他なる欲望や役割を担う〈からだ〉が交錯する場だが、その〈からだ〉を〈労働〉と読み換えることもできる。僕らは時に〈労働〉に退屈を覚え、眠くなるが、むしろ〈退屈〉への抗いとしての〈労働〉を構想することもできるだろう〈撮影所以降の映画〉である相米映画が帯びる〈退屈〉は、撮影所育ちのスタッフを触発し、それに抗う〈労働〉へと駆り立てた。撮影準備や現場、ポスプロにおける演出と演技の〈協働〉があり、さらにそこに観客の〈想像力〉による〈労働〉が加わる。こうした議論に濱口の映画論の独自性が表れるように思える。演出はいかなる労働に従事し、俳優の労働と組み合わされ、観客はどんな労働をもってそれらの協働に応えるのか。ある作品や作家の〈生産原理を掴む〉ために書かれた本書は、映画の〈労働〉の在り方や創造性、そして困難を驚くべき密度で記述=分析し、その再構築を目指す試みともなる。