国際的な注目を浴びる映画作家による初の商業映画は、映画ならではの野蛮なまでのエモーションに満ちた傑作!
独自のスタイルによるインディーズ作品群で国内外の映画関係者から高い評価を受ける濱口竜介が、満を持して最初の商業映画「寝ても覚めても」を世に問う。
「これまで一緒に仕事をしてきた同世代のプロデューサーと組むことで、自分がやってきたことを商業映画でもある程度貫けるかもしれない、という信頼と、これまでとは違う規模で映画を製作する挑戦……その両方が魅力的で、いまこの作品に臨むことが自分にとって一番いい、と思えた。もちろん、せめぎ合いの部分もありましたが、本読みやリハーサルに重きを置く従来のスタンスを、プロダクション全体で最大限尊重いただけたと思います」
濱口メソッドともいうべき〈本読み〉の重要性について、本作で一人二役に挑んだ東出昌大への演出を例に説明してもらおう。まずは朝子の恋人、麦という謎めいた風来坊的な男性がいて、彼が姿をくらました数年後に、同じ容姿ながら、かなり温和な性格の別の男性、亮平がヒロインの前に出現する。当然、俳優はこの異なる二つのキャラクターをどう演じ分けるかに頭を悩ませるはずだが……。
「変に演じ分けようと意識して声色を変えたりすると、かえって演じ分けているんだな、という印象が観客に残る。外見も違うし、台詞の質も違う、あとは東出さんが東出さんとして発声してもらえればそれでいい、と彼には伝えました。あとは、ニュアンスを抜いた状態で本読みを徹底してもらう。その効果については明確に言葉にできませんが、作為を抜いた状態で発声される声についてはずっと安定した状態で聴けて苦にならない。それを繰り返すなかで、台詞がその人の身体に馴染むのをずっと待つんです」
柴崎友香の原作小説では、二人のキャラクターが〈似ている〉としか記述できない。しかし、東出昌大という一人の人間が二人の別の人間として登場する本作では、そうした文学的な表現(類似性)と異質な、映画的としか説明し難い、具体的かつ暴力的な〈複数性=同一性〉が現れる。
「実はヒッチコックの『めまい』は、まったく同じ顔をしている人はやっぱり同じ人である、という、すごく合理的な話なんですね。だけど今回の映画では、まったく同じ顔の人だけど違う人ですよ、と観客に強弁する。とりわけ二人が一緒に映る画面は、確実に「合成」で、言わばまったく紛いものなんですが、その野蛮な紛いものを信じた人こそ、最高のエモーションを得られるのではないか、という期待があります。この人をずっと見ていたいと観客が思える、そんな存在がスターだとすれば、映画の嘘の基本にスターがいて、彼が一緒なら観客も映画の嘘と生きていけるのではないか。そのためにも東出さんがこの映画に必要だった気がします」
作為を徹底して排除した末に、あるいは、その結果としてそれでも浮かび上がる映画の根源的な〈作為=虚構性〉とも言うべきもの ……。濱口竜介の映画の〈現代性〉はそこにおいて宿る。
MOVIE INFORMATION
映画「寝ても覚めても」
監督:濱口竜介
原作:柴崎友香「寝ても覚めても」(河出書房新社刊)
音楽:tofubeats
主題歌:tofubeats “RIVER”(unBORDE/ワーナーミュージック・ジャパン)
出演:東出昌大/唐田えりか/瀬戸康史/山下リオ/伊藤沙莉/渡辺大知(黒猫チェルシー)/仲本工事/田中美佐子
配給:ビターズ・エンド、エレファントハウス(2018年 日本 119分)
2018年9月1日(土)、テアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国公開
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