現在、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンとブリティッシュ・インヴェイジョン・グループとして知られるゾンビーズという2つの伝説的なグループが合同で〈Something Great from 68(68年からの素晴らしい何か)〉というタイトルのツアーを行なっている。
ブライアン・ウィルソンが作り続けた、太陽を愛する若者たちのテーマソング群について、彼の美しいハーモニーやアレンジ、画期的な作品の数々、そして彼の精神病との戦いについて、多くの人がさまざまな事を書いている。しかしゾンビーズについての記述はそれほど多くない。ただ、彼らはオリジナルとしては1枚のアルバムしか制作していないにも関わらず、今年始めにロックの殿堂入りを果たした。
ゾンビーズは62年にイギリス、ハートフォードシャーのセント・オールバンズで、キーボード奏者のロッド・アージェントとギタリストのポール・アトキンソン、ドラマーのヒュー・グランディが出会い、ヴぉーカリストのコリン・ブランストーンとベーシストのポール・アーノルドを加えて結成。アーノルドは短期間のみでバンドを離れて医者になったが、バンド名は彼がつけた。アーノルドの後にはクリス・ホワイトが参加、バンドの作曲家となり、初期のゾンビーズのラインナップを完成させた。
バンド・コンテストに勝ったゾンビーズはデッカと契約し、最初のシングル“She’s Not There”を64年の7月に発売した。当時この曲は非常に珍しく、ジャジーでマイナー・キーの曲だった。アメリカでは徐々にチャートを上がり、同年12月には2位となるが、イギリスではUKトップ40で12位に留まる。その後、この曲は多くのアーティストにカヴァーされた。フランス語やUKパンクのヴァージョンはイギリスでチャートインし、グループサウンズのカーナビーツもカヴァー(彼らは他にもゾンビーズの曲をカヴァーしている)が、一番有名なのはサンタナの77年に発売されたアルバム『Moonflower』に収録されているヴァージョンだろう。
アメリカでの活躍により、ゾンビーズはイギリスより先にアメリカでデビュー・アルバム『The Zombies』を発売するに至る。多くのイギリスからのアルバムのように、彼らのデビュー・アルバムはR&Bのカヴァーとオリジナルのミックスだった。このアルバムは65年の1月に発売され、バンドはアメリカ・ツアーを敢行、TVの人気番組などにも出演した。この時代、音楽は地域毎に発売され、そのタイミングもバラバラだった。
イギリスでの次のシングルは“Leave Me Be”だが、失敗。アメリカでの次のシングルは“Tell Her No”でビルボードの6位につける。このシングルはイギリスでも発売されたが、42位と控えめな結果に終わった。ロッド・アージェントはビートルズ風のジャジーな曲を書き、63回も〈No〉という言葉を使っている。この曲はその後日本のアーティストにより何度もカヴァーされている。
イギリスでは、ゾンビーズのデビュー・アルバムは65年4月に『Begin Here』というタイトルで『The Zombies』と違う曲順で発表された。65年8月には“Whenever You’re Ready”がシングル・カットされて発売されたが、チャートインせず。
しかし、このB面に収録されたクリス・ホワイトによる“I Love You”は話題を呼び、サン・ジョゼの無名バンド、ピープル!にサイケ・テイストにカヴァーされる。このカヴァー版はスマッシュ・ヒットとなり、日本では1位、アメリカでは14位と多くの国でチャートインし、ザ・フーとのライヴも実現した。ピープル!のメンバーはほとんどがサイエントロジーというカルト教団のメンバーで、ヴォーカリストのラリー・ノーマンが教団に参加するのを拒んだとき、彼はバンドを外された。その後、ノーマンはキリスト教関連の音楽でスターとなったが、ピープル!はすぐに人気を失い、解散。“I Love You”は日本で大ヒットし、ザ・カーナビーツが日本語版を“好きさ好きさ好きさ”というタイトルでカヴァー。これをさらに、小林彩子、女性トリオのミケ、KinKi Kids、そして漫画「テニスの王子様」のキャラクター・跡部景吾らがカヴァーしている。しかし、この中でも特に印象深いのは木の実ナナの情熱的なヴァージョンだろう。
所属レーベルはゾンビーズのヴァージョンを再販しようと試みたが、これはうまく行かなかった。その反面、スカンジナビア半島やアジアの一部で彼らは人気を博している。その結果、彼らはフィリピンのアルネッタ・コロシアムで一晩2回制の10日間コンサートを開いている。ここは後の75年、アリとフレイザーのヘヴィ・ウエイト・ボクシング・マッチ、スリラー・イン・マニラとして有名になる試合の会場になった。