音楽の1ジャンルを確立する、という偉業を成し遂げた人間は多くないが、アメリカーナというジャンルを作ったのはグラム・パーソンズだ、と明言する人は多いだろう。これは、アメリカーナ確立への立役者として多くのミュージシャン(エヴァリー・ブラザーズ、ボブ・ディラン、バック・オーウェンズらを含む)の貢献を考えると、正直事実を簡略化しすぎとは言えるが、パーソンズがロックやカントリー、フォーク、ブルースなどを素にしたこのジャンルを作り上げる際の立役者だったことは確かだ。
あのビートルズも“I’ll Cry Instead”や“Baby’s in Black”など、カントリーに影響された曲を作ったり、バック・オーウェンズの“Act Naturally”などをカヴァーしたりしているが、60年代後半にはヒッピー文化が花開き、カントリー・ミュージックそのものが若者からは時代遅れでカッコ悪いと無視されるようになっていった。パーソンズは今でこそアメリカーナのパイオニアとして敬われるが、彼の26年間という短い人生の間、ヒットしたレコードは1枚もなく、幾度となく挫折を味わっている。
グラム・パーソンズ、本名イングラム・セシル・コナー3世が生まれたのはフロリダ州。母は裕福な柑橘農園の娘で、父は勲章を贈られるほどの空軍パイロットだったが、二人ともが大酒飲みだった。彼の父はパーソンズが12歳の時、クリスマスの2日前に自殺。後に母はロバート・パーソンズと再婚した(グラムは彼の姓を名乗るようになる)。
パーソンズの音楽的に重要な転換点となったのは、エルヴィス・プレスリーとの出会いだ。パーソンズは10代前半から、フロリダ州内の様々なロック~フォーク・バンドに参加。学校を無視して音楽にのめり込んでいたため、成績は良くなかった。しかし驚くべきことに、彼は名門ハーバード大学の神学部に情熱的な自己推薦レターを送ることで入学を果たす。だが、彼の学生生活は長く続かない。カントリー音楽のマール・ハガードによる個人的かつ感動的な歌詞に衝撃を受け、またも音楽に全力投球することになるのだ。
パーソンズはインターナショナル・サブマリン・バンドを結成し、すぐにリー・ヘイゼルウッドのLHIレーベルと契約。67年後半はアルバム『Safe at Home』のレコーディングに明け暮れたが、アルバムがリリースされる前、既に多くのヒットがあって、デヴィッド・クロスビーやマイク・クラークというメンバーが脱退していたバーズに参加するためにバンドから離脱する。『Safe at Home』は68年にバンドが解散した後にリリースされ、当時は商業的にも失敗だったが、その後何度もリイシューされたり、新装パッケージにより再販されたりしている。このアルバムには、ジョニー・キャッシュやマール・ハガードのコピーや、パーソンズのオリジナルが4曲収録されている。このうちの1曲がのちにパーソンズの最も人気のある曲となった“Luxury Liner”だった。
パーソンズにとって、当時すでにボブ・ディランのカヴァーやオリジナル曲でヒットを多く飛ばしていたバーズへの参加は大きなチャンスで、かつチャレンジだった。パーソンズは当初キーボード奏者として参加したが、すぐにバンドの方向性に大きな影響を与えるようになり、バンドをカントリー・サウンド方面に牽引。作曲を始め、ギター・パートに参加、リード・ヴォーカルも取り始める。しかし、ここでバンド創立メンバーで、ギター・パートを務め、リード・ヴォーカルを取り、このバンドのリーダーを自認していたロジャー・マッギンが難色を示したのである(この〈リーダー〉の部分が、デヴィッド・クロスビーがバーズを離れる原因のひとつだったと言われている)。
パーソンズが突然レーベルを変えると、リー・ヘイゼルウッドが彼を訴えると脅しをかけ、その際マッギンはアルバムの何曲かからパーソンズのヴォーカルを削除して自分の録音と入れ替えた(この件でのパーソンズの怒りは深かった)。それでも、アルバム『Sweetheart of the Rodeo』にはパーソンズの曲が2曲収録され、また彼のヴォーカルは“Hickory Wind”など3曲に残っている。この曲もまた彼の人気曲のひとつとなった。
『Sweethearts of the Rodeo』の評価は全米77位と高くなく、バーズの以前のアルバムと比べると売り上げも芳しくなかった。UKではチャートに入ることもなかった。68年当時、カントリー・ファンとロック・ファンの溝は深く、このアルバムは両方のファンから受け入れづらかった。レコーディングは一部がナッシュヴィルで行われ、名物でもあるライマン・シアターでライブを行った際、現地のセッション・ミュージシャンを起用してもいるのだが、カントリー・ミュージックを演奏するという事態に慣れていない現地の観客に対し、ヒッピーの若者が野次ったと言われている。
また、バーズがナッシュヴィル滞在中に、当時大人気だったラルフ・エメリーがメインDJを務めるWSMラジオの番組に出演。その中でエメリーはバンドを揶揄し、最初は彼らのシングルを流すことも嫌がった上、シングルが流れると〈大したことはない〉と評した。そこで、エメリーの狭量さに触発されたパーソンズとマッギンは“Drug Store Truck Drivin’ Man”という曲を作る。この曲はジョーン・バエズが〈ウッドストック〉で歌ったことで大人気となった。