男たちが曲を書き始めたごく初期から、そのインスピレーションの元に一番なってきたのは女たちだった。男たちは彼女たちの魅力に圧倒され、恋に落ち、恋に悶え、恋に破れ、恋の面影を追ってはそれらを歌に昇華してきた。そんな歌を聴いたことない人はいないと思うが、そのインスピレーションの原点となった女性たちは知られていない場合がほとんどだ。今回は、その中でもロックの時代の偉大なミュージシャンたちに影響を与えた、あまり知られていないミューズたちをご紹介しよう。

 

ビートルズ“Something”、デレク・アンド・ザ・ドミノス“Layla”など数々の名曲のインスピレーション源になったパティ・ボイド

パティ・ボイド――イギリスのモデル兼フォトグラファーだった彼女は、音楽界の巨人らによる多くの偉大なラヴソングのインスピレーション源となった。

パティが学校を卒業後に美容院で働いていた頃、客で来ていた雑誌社のスタッフの勧めによりモデルを始めると、すぐに頭角を表し、業界トップのフォトグラファーに起用され、最高峰のファッション誌に抜擢されるようになった。そこからビートルズの映画「ヘルプ!4人はアイドル」に脇役で起用され、そこであのジョージ・ハリスンと出会い、付き合い始めると、二人はすぐに同棲を始め、66年の1月に結婚。ジョージ・ハリスンが書いた楽曲の中でも、“I Need You”“If I Needed Someone”、そして彼のマスターピースとなった“Something”は彼女をインスピレーション源として書かれたと言われている。

しかし、二人はすぐに問題に突き当たる。パティは仕事を続けることを望み、ジョージはそれに反対したのだ。また、ジョージは何度も浮気を繰り返し、その中でも特にパティがショックを受けたのが、ジョージのバンドメイトであるリンゴ・スターの妻モーリンとの浮気だった。

また、ジョージとパティの結婚中に、パティに密かに思いを寄せていたのが、ジョージの友人だったエリック・クラプトンだった。クラプトンは短い間、パティの妹であるポーラと付き合っていたが、それはパティに近付くための手口だったと噂されている。70年にクラプトンはジム・ゴードンとの共作で、パティへの片想いについて歌ったとされる“Layla”を書き、大ヒットとなる。

しかし、同じ年にクラプトンはパティに想いを打ち明けるも拒否され、その後3年に渡ってヘロインに溺れる事になる。その後、薬物から足を洗った彼はパティに再度愛を打ち明け、今度は受け入れられる。後にパティはクラプトンのヒット曲“Bell Bottom Blues”や“Wonderful Tonight”のインスピレーション源となる。彼女に触発されて生まれた楽曲数はかなりのものだ。

 

パティの妹、ジェニー・ボイド

ジェニー・ボイドはパティの妹で、60年代にモデルとして活躍したが、姉やビートルズと一緒にインドに行くために仕事を辞め、そこで超越瞑想(トランセンデンタル・メディテーション)に出会い、モデル業を〈時間の無駄〉と切り捨てた。ビートルズやクラプトンと過ごす他に、15歳だったジェニーは当時のクラスメイトでまだ無名だった後のドラマー、ミック・フリートウッドと友人になり、彼とは後に2回の結婚をすることになる(70年〜76年、77年〜78年)。

また、ジェニーはインド滞在中、イギリスのフォーク・シンガー、ドノヴァンと出会った。ドノヴァンは彼女に夢中で、ビートルズがオープンしたアップル・ブティックで働くジェニーを度々訪ねるなどしていたが、多少イチャつくくらいの関係以上には進展せず、彼女について書かれた“Jennifer Juniper”というヒット曲だけが残った。

他にもミック・ジャガーがジェニーのために曲を書いたと伝えられているが、結局どの曲がそうだったのかは明らかにされていない。

また、ジェニーがミック・フリートウッドと結婚していた間、彼のバンド、フリートウッド・マックのメンバーは全員がキルン・ハウスと呼ばれた農場に住んでいた。その間ジェニーは“Purple Dancer”や“Jewel Eyed Judy”の一部の歌詞を書いたとされるものの、クレジットされることはなかった。バンドがツアーに出ている間、彼女はその農場で一人で出産をするが、その体験から鬱状態になってしまう。これが過剰な飲酒やバンドのギタリスト、ボブ・ウェストンとの浮気に繋がり、ミック・フリートウッドはウェストンをバンドから追い出す。

結局ジェニーはミック・フリートウッドと離婚をするが、その後キング・クリムゾンでもドラムを叩いたイアン・ウォレスやボブ・ディランらと短期間の結婚・離婚を繰り返す。後に彼女は、自叙伝と創作についての文章を兼ねた本「Musicians in Tune」を出版。この本の中で彼女は75人のミュージシャンにインタビューを行った。また彼女は飲酒と薬物の問題から足を洗い、ミック・フリートウッドや、ミックが彼女と結婚中に浮気していたバンド・メンバー、スティーヴィー・ニックスとの友情を再構築した。

 

ジョン・レノンが愛したオノ・ヨーコ

オノ・ヨーコと、彼女がビートルズやジョン・レノンに与えたインパクトについてはすでに多くの著作がある。ヨーコは彼女自身が非常にユニークなアーティストで、ジョンに自分の作品を見せ、ジョンの作品を一般的なポップ・ミュージックから、それを超越した音楽、商業的でない音楽へと変えるためのインスピレーションと機会を与えた。

ヨーコはジョンに出会う以前、クラシック音楽の作曲家である一柳慧や、映画プロデューサー、アンソニー・コックスと結婚していた。コックスとの間には娘のキョーコがいるが、ヨーコはコックスとの離婚後、キョーコが31歳になるまで会うことができなかった。一方のジョン・レノンもシンシア・パウエルと結婚して息子のジュリアンをもうけたが、ビートルズ・ファンには結婚の事実自体を隠していた。

乱気流のような激しい関係の中で、ヨーコとジョンは一緒にいることで精神的な落ち着きを感じ、芸術的な至福の時間を過ごした。75年、ジョンとヨーコの間に息子のショーンが生まれると、ジョンは音楽活動をストップして父親として家庭人らしい生活を送り始める。80年にジョンのカムバック・アルバム『Double Fantasy』が発売された際は様々な批判も多かったが、その理由のほとんどは、収録曲の半数がヨーコのものだからであった。80年12月8日に起きたジョンの悲劇の後、このアルバムはラジオで盛大に取り上げられ、特に収録曲“Woman”はシングル・カットされ、UKチャート1位、アメリカ・チャートでも2位を獲得する。この曲は、ヨーコという妻に対する柔らかな愛と感謝の歌だった。

 

ポール・マッカートニーをサポートしたリンダ・イーストマン

リンダ・イーストマンはアメリカの写真家で、ニューヨークの裕福な家の出身だった。彼女の父親はエンターテイメント業界専門の弁護士で、画家や、著名なミュージシャンのトミー・ドーシー、作曲家のハロルド・アーデン、ジャック・ローレンス(フランク・シナトラの最初のソロ・ヒット曲や、サラ・ヴォーンの曲を手がけた)などが顧客に名を連ねている。リンダが5歳の時、ジャック・ローレンスは彼女のために“Linda”という曲を書き、1946年のレイ・ノーブルのナンバー1ヒットとなった。

リンダは大学時代に自然の写真を撮り始め、そこからポップ・グループの写真を手がけるようになり、ポール・マッカートニーと出会う。ポールは彼女の独立志向と美貌を気に入り、結婚。ビートルズの解散後、ポールは非常に荒れて酒に溺れたが、リンダのサポートと作品に対する深い理解により復活する。この後、マッカートニーの代表作と呼ばれるラヴソング“Maybe I’m Amazed”が発表されるが、これはリンダがポールの中から引き出した多くの曲のうちの一つに過ぎなかった。

 

トム・ウェイツの共作者、キャスリーン・ブレナン

キャスリーン・ブレナンはトム・ウェイツの妻であり共作者でもあり、かつミューズである。結婚前、トム・ウェイツはベット・ミドラーやリッキー・リー・ジョーンズと恋愛関係にあったと言われている。ウェイツは79年、映画「パラダイス・アレイ」に出演していた際にキャスリーン・ブレナンに出会った。キャスリーンは当時、映画制作会社に勤めていて、住んでいたニュー・ジャージーからNYのスタジオに通っていたという。ウェイツは彼女に一目惚れし、優しいラヴソングを書き上げた。二人は80年に結婚。キャスリーンはウェイツにキャプテン・ビーフハートを紹介するなど、ウェイツがスタンダードなフォークやブルースから脱却し、ストリングスを含むより深みのあるスタイル(83年にウェイツが初めてセルフ・プロデュースした『Swordfishtrombone』のようなスタイル)へ移行するきっかけを作った。

また、87年の『Frank’s Wild Years』以降、キャスリーンは多くのウェイツの曲に共作者として名を連ねている。“Jersey Girl”はウェイツ・ファンにとって人気ナンバーワン・ソングだが、ブルース・スプリングスティーンのカヴァーで人気に火がつき、その後多くのアーティストにカヴァーされている。

 

デヴィッド・ボウイの元恋人、ヘルミオーネ・ファージンゲール

ヘルミオーネ・ファージンゲールはイギリスのダンサー兼女優で、現在はヨガ・ピラティス講師を務めるおばあちゃん。あまり知られていないが、実はデヴィッド・ボウイの元恋人である。彼らは68年の1月、BBCのドラマで、脇役俳優兼いくつもの潰れたバンドを渡り歩いていた貧乏ミュージシャンと身長177センチの女優として出会った。二人はすぐに激しい恋に落ち、ロンドンで同棲を始める。

裕福な彼女の父親が二人の関係を認めなかったり、デヴィッドが彼女に妻として家にいて欲しいと求めたこと、またデヴィッドの乱れた性生活など、多くの問題を抱えていた二人だったが、69年に彼女が映画「ソング・オブ・ノルウェー」に出演するためスカンジナビアに行ったことから破局。その後すぐにデヴィッドは『Space Oddity』(69年)で成功を収める。後にBCCのインタビュー番組で、デヴィッドはこの破局について、〈ものすごく傷付き、乗り越えるのに長い間かかってしまった〉と打ち明けている。

“Letter to Hermoine”というラヴソングを含む彼の曲の多くに、ヘルミオーネの影響を見る人間は多い。ヘルミオーネは今までボウイとの関係について言及したことはないが、2013年のデヴィッドの“Where Are We Now”のMVでは、彼が〈Song of Norway〉と書かれたTシャツを着用しており、MVの公開後に二人は顔を合わせたと言われている。当時、デヴィッドはすでにイマン・アブドゥルマジドと結婚していた。

 

マーク・ボランやミック・ジャガーが恋したマーシャ・ハント

マーシャ・ハントはアメリカ人で、モデル、女優、作家でシンガーだ。彼女はサンフランシスコ地区で育ち、ヒッピーのライフスタイルを享受。UCバークレーに在学中はデモ活動にも参加していた。96年に渡英し、女優兼バック・コーラスとしての活動を開始する。また、彼女はジョン・メイオールと短期間だが恋愛関係にあった。メイオールは彼女との関係から、アルバム『Blues Alone』(67年)のうち“Brown Sugar”(このタイトルはアフリカ系女性との性的関係を表す隠語である)、“Marsha’s Mood”の2曲を作曲。

また彼女は大人気ミュージカル「Hair」で主役級を演じたり、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティと共にドクター・ジョンのカヴァー曲“Walk on Gilded Splinters”をレコーディングしたりもしている。ヴィスコンティとの関わりからTレックスのマーク・ボランとレコーディング・スタジオで出会い、セッションが終わると、手と手を取り合って帰宅したという話もある。

そして彼女は“Honky Tonk Woman”の写真撮影中にミック・ジャガーと出会い、その恋愛関係は9か月の間続いた。その絶頂期には彼女にとって唯一の子供であるカリスを授かっている。ローリング・ストーンズの“Brown Sugar”はマーシャからインスパイアされたと言われているが、ジャガーが別に付き合っていたクラウディア・レニアーからインスパイアされたとする意見もある。

 

マリリン・モンローを題材にしたエルトン・ジョン“Candle in the Wind”

ご存知マリリン・モンローは美しいブロンド・ヘアと超絶プロポーションを持ち合わせた大人気セレブで、36歳の若さでドラッグの過剰摂取で亡くなるまで、女優やシンガーとして多くのヒット映画(殆どがコメディ)に出演するなどの活躍をみせた。この時代で一番写真を撮られた女性と呼ばれ、その人生は波乱に満ちている。大スター野球選手のジョー・ディマジオや脚本家のアーサー・ミラーらとの3度の結婚や、アメリカ元大統領のジョン・F・ケネディやその弟、ロバートらを相手に、常に恋の噂が話題だった。

彼女もまた多くの曲のインスピレーション源になったが、その中でもエルトン・ジョンの“Candle in the Wind”は特に有名だ。現在はダイアナ妃と関連付けられることの多い曲だが、オリジナルは73年にリリースされていて、曲の中にマリリンの本名、ノーマ・ジーンが歌われている。エルトンは97年、元英国王太子妃ダイアナ・スペンサーの悲劇的な死の後にこの曲を再編し、再レコーディングした。

 

ジュディ・コリンズとクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ

ジュディ・コリンズは61年にデビューしたシンガー・ソングライターで、ジョニ・ミッチェル、レナード・コーエンやボブ・ディランを最初にカヴァーし、楽曲が著名になるのを助けた人物として知られている。

コリンズは67年にギタリストのスティーヴン・スティルスと出会い、2年間の恋を楽しむが、俳優のステイシー・キーチに出会い、スティルスと破局。スティルスはその際、彼女を取り戻そうと“Suite: Judy Blue Eyes”(発音するとスウィート・ジュディ・ブルー・アイズと聞こえる)という曲を作る。

当時、スティルスのバンド、バッファロー・スプリングフィールドは解散していたため、バーズを離れたばかりのデヴィッド・クロスビーと、ホリーズから脱退したばかりのグラハム・ナッシュら友人を集めて録音した。この録音が非常に楽しかったということで、彼らはクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュを結成する。この曲は映画「ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間」にも採用され、さらなる人気を博すことになる。スティルスは結局ジュディとよりを戻すことはなかったが、二人は2017年にアルバム『Everybody Knows』のために再会し、一緒にツアーも行っている。

 

レナード・コーエン“Suzanne”のモデル、スザンヌ・ヴァーダル

スザンヌ・ヴァーダルは、レナード・コーエンの曲“Suzanne”のインスピレーション源だった。モントリオールのダンサーだったスザンヌは、コーエンとはプラトニックな友人関係だったものの、コーエンは彼女とお茶したり、港にある教会のそばを散歩したりする日々を66年から詩に綴り始める。当時、コーエンはユダヤ人ながら禅と仏教を嗜み、自らを歌手とは思っていなかった。彼の曲を一番最初に世に出したのはジュディ・コリンズで、コーエンは結局67年のデビュー・アルバムにこの“Suzanne”を収録した。

その後、コーエンは女ったらしとして名を馳せ、女性について多くの曲を書いている。代表的なものとして、恋人だったマリアン・イーレンとの別れを歌った“So Long Marianne”、ジャニス・ジョップリンとニューヨークのホテルでの情熱的な一夜を歌った“Chelsea Hotel No. 2”などは、かなり鮮明にその恋の様子が描かれている。

パフォーマーとしてはそこそこの人気でしかなく、アメリカでのヒット・レコードはなかったが、時代の流れと共に彼のアルバムは売れ、多くのアーティストが彼の曲を歌い、コーエンはボブ・ディランやポール・サイモンと並び称される作曲家と言われるようになった。

 

トランスジェンダーとして有名になったキャンディ・ダーリング

キャンディ・ダーリング――本名ジェームズ・スラッタリー・ジュニア――は、トランスジェンダーのアーティストとして有名になった。彼女はニューヨーク州ロングアイランドで生まれ育ち、幼い頃から映画マニアで、キム・ノヴァックなど大好きな女優たちの真似を始めた。高校生の時にはいじめにあい、16歳で学校を中退。美容師として働くかたわら、数々の芸名を使いながら劇場に出るようになる。

また、同じ頃に彼女はより女性らしくなるためにホルモン注射を開始。アンディ・ウォーホルに見出され、彼の映画に次々と出演したことで他の監督作品にも女優として抜擢されるようになった。

当時ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに所属していたルー・リードは、トランスジェンダーに対して執着し、ダーリングをモチーフに“Candy Says”という曲を書き上げた。後にルー・リードのヒット・ソング“Walk on the Wild Side”の歌詞にも彼女は登場し、マクシズ・カンザス・シティというバーによく現れる彼女のことが描かれている。歌詞の中には〈But she never lost her head / Even when she was giving head〉(彼女はいつも冷静だ、しゃぶっている時でさえ)という一節があるが、AMラジオのヒット・ソングにしては非常に際どいものだ。

キンクスはリーダーのレイ・デイヴィスが書いた“Lola”で一世を風靡したが、この曲で描かれたバーでのトランスセクシュアルとの出会いはキャンディにインスパイアされたのではないかと言われている。この曲の元になった人物については多くの推測があるが、レイ・デイヴィスはキャンディ・ダーリングとディナー・デートをしたことを否定していない。