誰もサイケの何たるかを分かっていなかった

――特に好きだったバンドやミュージシャンは?

「メンバーによってバラバラではあるんですが、僕はその頃ドイツのバンド、いわゆるクラウトロックが好きでした。特に好きだったのがアモン・デュールですね。他にもスウェーデンのパーソン・サウンドとか、コミューン系のサイケが好きで。バンドによっては10人ぐらいメンバーがいて、ワンコードで楽しそうに演奏していて、これだったら自分たちも何かできるかもって思ったんです」

アモン・デュールの69年作『Psychedelic Underground』収録曲“Im Garten Sandosa”

パーソン・サウンドの2001年のコンピレーションアルバム『Pärson Sound』収録曲“From Tunis To India In Fullmoon (On Testosterone)”

――あれなら自分にもできるかも、とか、これなら私もやってみたいって、パンクやヒップホップを後押しした理念でもありますね。

「そうだと思います。それが僕らの場合サイケだった。裸のラリーズとかも、ワンコードで延々と音を鳴らしているじゃないですか。僕らは音楽的にはラリーズには及ばないけど、こういう系統だったらできるんじゃない?というインスピレーションが浮んで」

裸のラリーズの2022年のライブアルバム『The OZ Tapes』収録曲“Vertigo otherwise My Conviction/眩暈”

――他にはどんなものを聴いていたんですか?

「メンバーによって好みが違うんです。クラウトロックはKotsu Guy(ベース)とギターのTomoが元々好きで聴いていて、それはバックボーンのひとつとしてありました。ただ、シタールのRyuとギターのDaoudは通ってきた音楽が違うので、初めはピンときてなかっただろうし、何回聴かせても、本当にいいと思っているかは謎です(笑)」

――音楽の趣味がバラバラだからだからこそ、ルーツが見えそうで見えない。そこが、すごく面白いと思いました。

「それは結構ありますね。こういう音楽性のバンドやろうぜって言って始めた感じではなく、サイケっていうキーワードだけがありきで始まったので。で、サイケって結構何でもありだったから、その懐の深さを何かうまく活用できたなっていうのはありました。

みんな楽器を始めたばかりで、誰もサイケの何たるかを分かっていなかったんですよ。でも、分からないなりに一生懸命やっていて。楽器の弾き方や叩き方がわからなくてもとりあえずやってみるという」

――DIY精神ですね。

「そうですね。あと、個々の音楽の趣味よりも、人間的な結びつきを大事にしたかったんです。だから、仲良く楽しくやるっていうのはコンセプトとしてあって。高円寺の一軒家を借りて一緒に生活したんですけど、そうやって遊ぶ中から何か音楽が生まれるんじゃないか試したりもしましたね」

 

受け入れられない日本を出て海外へ

――最初から海外での活動を念頭に置いていたんですか?

「いや、最初、高円寺のライブハウスに出ていたんですけど、お金のかかる趣味だなと思って。チケットのノルマもあるし、技術的にも他のバンドに追いつけなくて、この後どうなるかがまったく想像できなくて。この調子でライブをやっていって、日本のレーベルからデビューするみたいなイメージができなくて」

――最初に海外でライブをしたのは?

「オーストラリアに行ったんですけど、その時は2曲ぐらいしか曲を演奏しなくて、あとは全部ジャムセッションみたいな感じでした。でも、それがすごく盛り上がって、〈あ、これでもこれでいいんだ、これでもイケるかも〉って思いました」

――日本人だとOGRE YOU ASSHOLEと共演されてますけど、日本で自分たちに活動のスタンスが近い人って、誰か思い浮かべますか?

「それが思い浮かばなかったので、日本を出たというところはありますね。自分たちみたいなことをやっても日本じゃ多分受け入れられないだろうなって。できるとしたら、外国で注目されて日本にもそれが広がるみたいなイメージで。いわゆる逆輸入ですよね。最近ならBorisとか」

――結構いますよね。Melt-Banana、少年ナイフ、Bo Ningenなど。