静岡県を拠点に活動を続けるピアニスト、DAKOKU。クラシックの確かなテクニックをベースに、ゲーム音楽やミニマルミュージックなどの影響を取り入れた独自の音楽性が持ち味だ。2023年にリリースした『月光』と新作『瞬景』は、障がいを持って生まれた娘への思いを綴ったアルバムだが、『月光』リリースの後には最愛の娘を亡くすという大きな出来事があった。『瞬景』は、その深い悲しみから立ち直り、再び前に向かって歩み始める心の動きをピアノで表現した物語だ。アルバムに収められた曲について、そして〈サウンドテイル〉と本人が名付けたそのスタイルについて話を聞いた。

DAKOKU 『瞬景』 Musicpro(2025)

 

クラシック、ニューエイジ、ゲーム音楽などから影響を受けたピアニスト

――DAKOKUという名前の由来を教えてください。

「実は30代の頃に、ゲーム『モンスターハンター』にかなりのめり込んでいまして。太刀の使い手だったのと、黒が好きなので、〈太黒〉というネームでやっていたのですが、それをデビューの際にローマ字表記にしました。本名で活動するのはちょっと恥ずかしかったんですよね」

――本拠地は静岡県なんですね。

「はい。沼津市と三島市の間にある清水町というところに住んでいます。富士山からの湧水が有名です。生まれは伊豆長岡というところで、現在は伊豆の国市になっています」

――DAKOKUさんのピアノ遍歴を教えてください。

「5歳のときに始めて、小学4年生のときにピアニストを目指そうと思いました。当時、ショパン国際ピアノコンクールでスタニスラフ・ブーニンが優勝して、そのドキュメンタリー番組を観て、彼に憧れたんです。そして国立音楽大学に入学し、ピアノと音楽教育を学びました」

――その後、静岡県に戻られたのですか?

「実家に戻り、作曲の勉強をしました。ピアノはクラシック音楽の教育を受けたのですが、『ドラゴンクエスト』の影響で、ゲーム音楽の作曲家になる夢もあったものですから。

それで、初めて作った曲がとある音楽プロデューサーの目に留まり、インディーズのレーベルに所属してCDをリリースしたり、ラジオで音楽情報番組のパーソナリティを務めたりしました。当時はジョージ・ウィンストンに触発された作品などを作っていましたね。

その後、結婚を機に〈もっと手に職をつけたい〉と考えるようになって、広告代理店に勤めてウェブプログラミングを覚え、クライアントのウェブサイトを構築する仕事を10年間続けました。私のウェブサイトも自分で作ったものなんですよ」

 

障がいを持つ娘と歩んだ人生 

――そして、その後は福祉の世界に入られるんですよね。

「結婚して娘が生まれたのですが、先天性の難病で、発達障がいに加えて、生きられる時間も長くないだろうとのことでした。ウェブサイトの仕事にも、営業のやり方が自分に合わないところがありましたし、自分も障がい福祉の世界に進んだほうが家庭のためにもなると思い、転職したんです。その仕事では福祉と音楽の接点にも気づくことができました。これは娘が作ってくれた出会いだと思います。

そして、娘は1年半前に亡くなりました。そのまま同じ職場にいると辛い気持ちになってしまうため、現在は高齢者介護の職場で働いています」

――前作『月光』は、お嬢様がまだご存命のときにリリースされました。

「彼女はしゃべることもままならないし、友達とコミュニケーションもとれない。歌が好きだったけれど、歌詞の意味がわかるわけではない。つまり、一般の人間が楽しめるようなことを楽しめないわけです。加えて、普通だったら味わわなくてもいいような苦しみを背負わなければならない。そこに親として悲観してしまったときがあるんです。

そこで、娘と一緒に見たかった美しい風景や、彼女に対する思い、そして彼女が考えていること、そういったものを風景として表現したのが『月光』というアルバムでした。その後、次のアルバムのことを考えようかというときに、娘が不慮のアクシデントで亡くなってしまいました」

――それは、本当に何と申し上げればいいか……。

「もう鬱になってしまうぐらいショックで、どこを見ても悲しいし、娘に会えなくなってしまったいま、何を支えに生きていったらいいかわからない、という状態でした。

そこで、精神的に娘を探す旅みたいなものが、自分の中で始まったんです。心の中で娘を探し、そして立ち直っていくまで。その風景を描いたのが、本作『瞬景』なんです」