KIRINJIの通算17作目のアルバム『TOWN BEAT』がリリースされました。Mikikiは本作について堀込高樹さんのインタビューを掲載。さらに、毎回歌詞について独自の視点からコラムを綴ってもらっている小説家・奥野紗世子さんに、新作について特別寄稿してもらいました。奥野さんはどうやら、収録曲“flush! flush! flush!”にお熱なようです。なお、彼女の新作中編小説「この人の知らない戦争」は「文學界」2025年12月号に掲載されているので、そちらもあわせてチェックしてください。 *Mikiki編集部

KIRINJI 『TOWN BEAT』 syncokin(2026)

 

CITY POP→TOWN BEATの変化が意味すること

リリースが年始すぎる。つまり『TOWN BEAT』は堀込高樹からのお年玉。

30過ぎても、もらえるもんなんですね。

このアルバムタイトルを見て最初に思った〈CITY POPと言われすぎてTOWNを採用したのかな?〉という発想は安易でしたが、核心だったと“flush! flush! flush!”を聴いて感じました。

〈TOWN BEAT〉は〈CITY POP〉がないと出てこないと思います。単語の対比の明確さは否定できません。

それを〈CITY POP〉に対するただの逆張りだと判断するのは安直です。〈キリンジ〉時代から繰り返されつづけた〈CITY POP〉というジャンル分けを現在の〈堀込高樹を中心とする流動的な音楽ユニットとしてのKIRINJI〉として受け入れた上で〈CITY→TOWN〉、〈POP→BEAT〉という意図的なダウングレードをしていると判断しました。かなり自己言及的です。こうなると堀込高樹は自身の私性も引き受けなければならなくなってくると思います。

 

大都市に対する警鐘

近年の堀込高樹は気になったことをタイムラグなしに歌詞にすることを意識していると思っていて、例えば“非ゼロ和ゲーム”は映画の「メッセージ」を見た直後だと推測しています。

“flush! flush! flush!”は水道管破裂を題材にした曲です。現在実際に全国で起こっています。

堀込高樹は水道管破裂が気になり曲にしている。しかし“flush! flush! flush!”を聴くに、それを単なる時事ネタだと扱っていない。

TOWNのような末端で水道管破裂のような限界が起きているっていうことは、源流を辿った先のCITYではもっと深刻だという意図もある。

タイトルを〈TOWN BEAT〉とした時点でいままでキリンジ/KIRINJIが括られてきた〈CITY POP〉というものに対する現在の立ち位置が明確になる、そうすると堀込高樹の私性も含まれてしまい、同時にKIRINJIの音楽を〈CITY=大都市〉に対する警鐘のステイトメントとして提示している。これがわたしの読みです。

 

抒情や詩情でなく、直接的な単語を使う深刻さ

とにかく“flush! flush! flush!”の歌詞は驚きました。

トイレの話が始まったので喜んだのですが、展開していくごとにこの曲に込められた堀込高樹の怒りが相当なものだと気がつきました。

こんなに深刻なトーンは“「あの娘は誰?」とか言わせたい”の〈美しい国はディストピアさ〉以来だと思います。

〈ニッポンのトイレってso good〉は〈美しい国〉とギリ濁していた堀込高樹がはっきりと〈ニッポン〉と言っているのは本当に異常です。

堀込高樹のような抒情や詩情で評価されてきた人が直接的な単語を使う恐ろしさを考えてください。テレ東が通常の放送をやめたときみたいな笑えなさがありませんか?

冒頭いきなり〈明かりがつく/蓋が開く/便座はあたたか/曲も鳴る〉と日本のトイレの優れている点を羅列するが、それは意志の介在の余地のなさでもある。

そして〈教えて外国人! 日本のスゴイとこ!〉的なテレビ番組のある種のクリシェ、〈ニッポンのトイレってso good〉〈ニッポンのトイレってエグッ〉を繰り返しますが、低俗な言葉を明確な意志をもって用いたフレーズだと思います。あんなに複雑な比喩を書いていた人が、あきらかに意図的に歌詞をダウングレードさせ、剥き出しのスローガンに到達してしまった表現者としての覚悟を感じました。

つづく〈アスファルトの下では/錆びた下水管が破裂して/汚水が噴き出している/空洞が広がっている〉とso goodなトイレの水が流れていった行く末が描かれます。

トイレ絶賛からの下水管破裂。そんな一連の流れと比喩の巧さは非常にクールですが、今後30年で耐用年数に問題の出る下水管を修理するには90〜100年かかるらしく、まったく笑えない。

もはや〈空洞が広がっている〉のあとに挿入されるマスオさん的な〈えぇ〜っ!?〉の白々しさにしか救われなくなってきます。

気になってくるのは〈no good〉を3つ置いているところです。かなり注釈として親切。ここで感じるのは解釈を委ねる余裕のなさです。

かつて難解な比喩で読みに迷いを生ませて判断をリスナーに任せつつ、別の解釈の余地まで歌詞で作り込んでいた人間がこんなに親切なことをしている。

これは〈so good〉に対する音楽的な鳴りのよさで置いた3つかもしれないけど、そこまでしないと伝わらないという絶望かもしれません。