adieu(上白石萌歌)の通算5枚目となるEP『adieu 5』が、2026年4月22日(水)にリリースされる。本作はこれまで同様、才能豊かなクリエイターたちがadieuのために書き下ろした楽曲が収められており、シンガー、表現者としての彼女の成長が感じられる作品となっている。adieuは、なぜアーティストたちを惹きつけてやまないのか? 彼女の歌声と言葉に耳を傾け続けてきた私はこーへに、過去の4枚のEPにも触れながら考えてもらった。 *Mikiki編集部
adieuにとっての〈夜〉と〈さようなら〉
adieuは作品ごとに多様な作家が関わり、季節が移ろうようにその景色を変えてきた。そこには春の終わりのやわらかな光もあれば、秋の深まりを思わせる翳りもある。野田洋次郎に始まり、川谷絵音、小袋成彬、柴田聡子、カネコアヤノ、塩入冬湖ら、数多くの作家が作詞・作曲を手がけてきた。その中で、adieuは独自の世界観を持ったアーティストたちの個性に引きずられることなく、不思議なほどadieuであり続けている。なぜ多様な作家の言葉を受け取りながら、それでもひとつの表現としてまとまり続けているのか。そのことを考えるうえで重要なのが、adieuというプロジェクトのなかで少しずつ刻まれてきた、上白石萌歌の声の変化である。
その出発点にあったのは、野田洋次郎による“ナラタージュ”だった。いま聴き返すと、そこにはあまりに素朴で、まだ何者でもない歌声がある。だが、言葉をひとつずつ噛み締めるように置いていくその声には、その後の楽曲に通底する繊細さと芯の強さがすでに宿っている。〈はじめまして 「さようなら」〉という一行が示すように、adieuという名そのものが、始まりと終わりを同時に抱えた名前でもあった。
そして、その感覚をよりはっきりと形にしたのが『adieu 1』だった。なかでも塩入冬湖が作詞・作曲を手がけた“よるのあと”は、adieuを象徴する曲へと育っていった。ここには、その後の作品たちを貫く〈夜〉と〈さようなら〉が、すでに姿を見せている。〈あなたが嘘をつかなくても/生きていけますようにと/何回も何千回も 願っている/さよなら〉という一節にあるのは、別れの痛みだけでなく、離れてもなお相手の幸せを願ってしまうやさしさだ。adieuにとって夜とは、人との関係に思いを巡らせる時間であり、ままならない感情を映し出す場所でもある。
続く『adieu 2』では、そうした感情の揺れがさらに具体的な輪郭を持ち始める。古舘佑太郎が手がけた“愛って”は、〈今日は永遠って言葉/なんか信じられる日だね〉と歌うように、愛をありふれた日々のなかでふと信じられる奇跡として捉え、その大きさとちっぽけさのあいだで揺れている。小袋成彬の“ダリア”にある〈最後の恋と決めた/それを初恋と呼ぶのでしょう〉もまた、終わりと始まりのあわいを歌っていた。カネコアヤノの“天使”には、〈もう大丈夫〉と前を向こうとする自分と、涙を小瓶に入れて手放しきれない自分が同時に生きている。頑張りたい、でも頑張れない、それでも頑張ろうとする。そうした揺れが、ここでは繊細に歌われている。
adieuは、自分で歌うには近すぎてくすぐったい感情や、誰かに託したくなる記憶の断片を、そのまっすぐで透き通った声で引き受け、包み込む。そうして曲たちは、彼女を通ることで固有の風景を帯びていく。


