©Jonathan Gretarsson

『ヨハン・ヨハンソン:ピアノ作品集』から聞こえる音楽との親密さについて

 2026年4月3日都内で開催した〈プレミアム・ショーケース in Tokyo〉はアリス=紗良・オットの音楽家の資質を端的に伝えるイヴェントであった。会場では、上手にグランドピアノ、下手にはアップライトを矩形に並べてあり、中央をこの季節らしい花々を贅沢にあしらった造形作品が彩っている。定刻ぴったりに登場したアリス=紗良・オットは招待客が埋める客席中央の花道をピアノの位置まですすむと、上手のグランドピアノの前にむかうやいなや、ジョン・フィールドの“ノクターン第9番ホ短調”を奏ではじめた。19世紀初頭に活動したアイルランド生まれの作曲家のひかえめな叙情に、銀座ソニーパーク3階の一隅はもの思いに耽るような静けさにつつまれていく。半時間ほどのかぎられた時間であったが、都合7曲、MCをはさみながら進行したコンサートは日々の慌ただしさを忘れるようなひとときであった。

 翌日、取材場所に現れたアリス=紗良・オットは前日のシックな装いから一転、白シャツに髪を束ねたカジュアルな出で立ちで、窓外のあいにくの空模様に、せっかくの季節なのにお花見もできませんね、と水をむけた私に彼女は「きのうのすてきな装飾が私のお花見でした」と笑いながら言葉をかえした。「でもけっこう寒いですね。東京の前にいた香港は30度あったから」

 聞けば、台湾からはじまったアジアツアーは上海、広州、北京とつづき、香港で楽日を迎えたのち、深夜便で東京に着いたのが一昨日。6時間ほど休み、いくつか仕事をこなし、昨日は上述のイヴェントで、いまはこの取材を受けていて、明日の朝の便でドイツに帰るのだという。強行軍というほかないが、ピアノを主楽器に活動の場を世界に求める演奏家の宿命といえるのかもしれない。

アリス=紗良・オット 『ヨハン・ヨハンソン:ピアノ作品集』 Deutsche Grammophon(2026)

 最新作となる『ヨハン・ヨハンソン:ピアノ作品集』も録音をアイスランドのレイキャビクで行っている。日づけは2年前の2024年7月。7月というからには夏である。

「アイスランドは夏でも夜は零下になることもありますからやっぱり寒いんですよ(笑)。最高気温も15度から20度くらい。レイキャビクは今回が3回目です。最初は2008年でした。アイスランド交響楽団と日本ツアーを予定していて、リハーサルも行いましたが、金融危機でキャンセルになったんです。次が2013年から14年にかけて。ショパン・プロジェクトのときですね。今回は3度目の滞在でしたが、レイキャビクが観光地になっていて驚きました。以前は観光バスを目にすることもなかったですが、エイヤフィヤトラヨークトルの噴火をきっかけに増えたようです。私はアイスランドに行くのが本当に好きで、今回は少し時間があったのでクルマを借りて遠出しました。ハイキングにも行きましたし、ゲイシール間欠泉も訪ねました。すてきな経験でした。それに私、アイスランドのみなんさんが大好きなんです。心が広く、気どらない人たちばかりで、そこにいるといつも気持ちがいいです」

 リーマン・ショックに端を発するアイスランドの金融危機と国内大手銀行の破綻と国有化に通貨危機、そこからの経済再建を述べるのは本稿の任ではないが、政治や経済といった国際社会の動向がひとりの音楽家の活動と、陰に陽に交錯するのは現代社会と芸術の関係を示すかのようでもある。

 

 三度目のアイスランド訪問は当地がヨハン・ヨハンソンの故郷であるとともに、アリスとも縁浅からぬことにも由来するのだろう。2018年、拠点とするベルリンで他界したヨハンソンの音楽についてもアリスは「博士と彼女のセオリー(The Theory Of Everything)」(2014年)や「メッセージ(Arrival)」(2016年)などの映画作品で親しんでいたという。加えてヨハンソンは代表作『オルフェ』(2016年)などをドイツ・グラモフォンからリリースした、いわばレーベルメイト。おりしもヨハンソンの友人が彼の作品をピアノ用に編曲し、作品集として出版する計画が進行しており、レーベルからも録音してみないかと声がかかった。最終的に2024年、英国のフェイバー・ミュージックよりヨハンソンとも共演歴のある作曲家でピアニストのダスティン・オハロランの序文を付し、クロス装限定版での刊行となったスコアにアリスは丹念に目を通し、プロジェクトへの参加を決意した。

 「ヨハンソンの作品はすごく親密でこれほど切実なものがあるのだろうかとも思います。ことに多忙な現代社会において、強制的にスローダウンし、その瞬間に集中して、また意識をもつように促すような音楽でもあると思います。おそらく多くの方が彼の作品のそのような魅力に惹かれているのではないでしょうか」

 「親密」の語は本作から3曲を披露したショーケースのMCでもアリスの口の端にのぼったキーワードのひとつである。ここでいう親密さとはおそらく、私たち聴き手が作品におぼえる心理的な距離のようなものだが、たんにメロディの親しみやすさや、和声や構成のわかりやすさによるものではない。作曲家、演奏者、聴き手からなる音の場における関係性の結び方のようなものであり、その点でもヨハン・ヨハンソンは21世紀初頭に特記すべき作曲家のひとりであった。ときに付随音楽と呼ばれもする映画音楽の分野でのめざましい活躍もそのことの傍証だが、ヨハンソンの革新性はきわめて調性的な音の連なりと、ノイズや電子音、映像までもふくめた非調性(音楽)的な要素との対位法的な兼ね合いにあった。ポストヨハンソン的なサウンドトラックの音づくりの要諦もここにあるが、本作のようにピアノ一台の場合は勝手がちがったのではないか。

 「ヨハンソンの作品を通して、彼はピアノという楽器を深く理解していた音楽家だと理解しました。彼自身もピアノを演奏していましたし、彼が作曲した多くの交響曲や電子音楽はピアノにかんする知識がなければ、生まれなかったものだと思います。音符同士の関係性や、和音やハーモニーにおける和声の使い方、バランスのとり方からもそれがわかります。それもあって、ヨハンソンの音楽をピアノという楽器にもちこむことはそれほど難しいことではありませんでした。違和感もまったくなかったです」

 アリスの『ヨハンソン作品集』はヨハンソンの2002年のソロ1作目『エングラボルン』の4曲からロウ・イエの「シャドウ・プレイ」OST(2022年)まで、クロニクルに編まれている。全30曲の真ん中にあたる16曲目の“フライト・フロム・ザ・シティ”(『オルフェ』収録)のように象徴的にあつかう楽曲もあるが、それも含めてフェイバー・ミュージック版のスコアに準じているのだという。原曲はピアノ主体の曲がほとんどだが、弦や電子音をとりいれた楽曲も少なくない。ことに後半にそれが集中するのは──編年体の構成とあいまって──作曲家が自身の語法を確立する過程にたちあうかのごとき興趣がある。これらの作品の録音にさいして、アリスは1曲目から順に吹き込んでいったのだという。

 「プロデューサーのスタジオに古いグランドピアノとアップライトのピアノがあったので曲ごとに試してみて、最終的には27、28曲、ほぼすべての曲をアップライトで弾きました」

©Ryota Mori

 冒頭のショーケースでアップライトを用意したゆえんだが、本作からも3曲をとりあげた昨晩の演奏では弦とハンマーの間にフローリングワイパー用シートをかませ、プリペアドすることで幾分こもった響きをかもしだしていた。じっさいの録音で使用したアップライトはオーラブル・アルナルズとの『ショパン・プロジェクト』(2015年)のレコーディングエンジニアをつとめ、本作のプロデュースを担ったベルガー・ソリソンのスタジオのもの。やわらかな音の立ち上がりとふくよかな響きが印象的なベルガーの音づくりについて、彼は弦とハンマーのすごく近い位置にマイクを置いていました、とアリスは当時をふりかりながら説明する。ビョークの『フォソーラ』(2022年)にも参加したソリソンのマイキングはアリス=紗良・オットがヨハン・ヨハンソンの音楽にみいだした親密さへの空間的、物理的、すなわち音響的な呼応であるだけでなく、抑揚と階調に富むアリスのピアニズムを倍加させる重要な要素となっている。それにより『ヨハン・ヨハンソン:ピアノ作品集』は『エコーズ・オブ・ライフ』や『フィールド:ノクターン全集』といった近作にもかいまみえる、歴史という過去を背負う音楽作品とアリス=紗良・オットというひとりのピアニストとの時を超えた親密さを封じ込めた一作になった。

 「私は作品に取り組むさい、作品の構造や音楽的な分析に多くの時間を費やします。それはとても重要なことです。しかし最終的にそれらは私自身の個人的な視点になるんです。私にとって音楽は中立的というよりはとても個人的な経験で、作品を演奏することはふたりの人間が出会うような感覚があるんです」

 


アリス=紗良・オット(Alice Sara Ott)
ドイツ・ミュンヘン出身のピアニスト。世界で最も多くストリーミングされているクラシック・ピアニストのひとりであり、独自の芸術的言語を持つ演奏家として高く評価されている。2008年、19歳でドイツ・グラモフォンの専属となり、2025年2月にリリースされた最新アルバム『フィールド:ノクターン全集』は、Apple Classicalの〈アルバム・オブ・ザ・イヤー〉に選出されたほか、「ニューヨーク・タイムズ」および「ボストン・グローブ」により、2025年を代表するクラシック・アルバムのひとつとして選ばれている。また音楽活動だけに留まらず、ときにイラストやデザインも手がけながら、ファッション、ジュエリーなど幅広い分野で活躍中である。

 


寄稿者プロフィール
松村正人(まつむら・まさと)

1972年奄美生まれ。雑誌編集者を経て2009年に独立。著書に「前衛音楽入門」、監修書に「テリー・ライリー完全版」、編著に「捧げる 灰野敬二の世界」「山口冨士夫 天国のひまつぶし」「青山真治アンフィニッシュドワークス」「文藝別冊髙橋幸宏」など。近刊の編著に「文藝別冊ディアンジェロ」。