松田聖子の通算13枚目のオリジナルアルバム『SUPREME』がリリースから40周年を迎えた。名曲“瑠璃色の地球”を収録した本作は、妊娠・出産による活動休止中に発売された。そのタイミングやシングル曲を一切含まない内容など、決してヒットの条件が揃っていたとは言い難いが、結果的にはキャリア史上最大級のセールスを記録している。そんなエポックメイキングな傑作を、音楽評論家の小川真一に再考してもらった。 *Mikiki編集部
追い風ではなく、向かい風のなかから生まれた
松田聖子の『SUPREME』が誕生してから40年……。オリジナルリリースは1986年6月1日で、当時はレコード、カセットテープ、そしてCDという3つのフォーマットで同時発売された。いま振り返れば、カセットテープ版の存在に時代の空気を感じずにはいられない。当時はまだカーステレオの主役がカセットであり、このアルバムも多くのリスナーの日常とともに鳴り響いていたのだ。
『SUPREME』は、追い風ではなく、むしろ向かい風のなかから生まれた。松田聖子は神田正輝との結婚を経て、第一子の妊娠・出産のため芸能活動を休止中。テレビの音楽番組への出演はもちろん、大規模なプロモーションもほとんど期待できない。アイドルにとって、メディアへの露出が売り上げを左右する時代である。その常識からすれば、『SUPREME』は決してヒットを約束された作品ではなかった。
しかし、音楽はときに常識よりも強い。その予想は鮮やかに裏切られる。本作は松田聖子のアルバム史上でも最大級のセールスを記録し、文字どおりのモンスターアルバムとなった。活動休止中というハンディキャップさえ跳ね返したその結果は、単なる人気の惰性では説明できない。そこには、松田聖子への揺るぎない信頼と、新作を待ち望むファンの熱狂が存在していた。
アイドルアルバムの定石をあえて完全に放棄
さらに驚くべきは、その内容である。収録曲はすべてアルバムのために制作された新曲。シングルA面はもちろん、B面曲さえ一切収録されていない。当時のアイドルアルバムの定石だった〈ヒットシングルを軸にアルバムを組み立てる〉というセオリーを、あえて完全に放棄しているのだ。では、『SUPREME』のコンセプトとは何だったのか。それは思いつきや気まぐれな実験ではない。本作を読み解く大きな鍵は、作詞家・松本隆の存在にある。彼のトータルな視点とクリエイティビティが、このアルバムを特別な作品へと押し上げた。
それは単なる作詞家の仕事でも、一般的なプロデューサーの役割でもなかった。制作現場の最深部にまで踏み込み、スタジオの空気を吸い込みながら作品全体の方向性を形づくっていく。そんな松本隆だからこそ可能だったクリエイションではないだろうか。膨大に集まったデモテープに耳を傾け、磨き抜かれた楽曲を選び抜く。そして、その楽曲の運命を、新しい感性を持つアレンジャーたちへ託していく。そこには、一切の妥協を許さない美意識があった。〈美は試練の中にあり〉、そんな言葉を思わせる創作の積み重ねが、『SUPREME』という一枚を生み出したのである。
アルバムは、静かな湖面から旋律がゆっくりと湧き上がるような“螢の草原”で幕を開ける。作曲はT-SQUAREの安藤まさひろ、編曲は当時29歳の武部聡志。この幻想的で透明感あふれるサウンドは、それまでの松田聖子にはあまり見られなかった新しい世界だった。
さらに特筆すべきは、南佳孝、大沢誉志幸、玉置浩二ら、当時シンガーソングライターとして第一線を走っていたアーティストたちが楽曲を提供していることだ。彼らの個性をそのまま持ち込むのではなく、〈松田聖子のアルバム〉という一つの世界観へと昇華させているところに、『SUPREME』という作品の完成度の高さがある。
“瑠璃色の地球”が時代を超えて愛される最大の理由
そして、アルバムの最後に置かれたのが“瑠璃色の地球”である。作詞は松本隆、作曲は平井夏美。よく知られているように、平井夏美は音楽プロデューサーであり作曲家でもある川原伸司の別名義とされている。
“瑠璃色の地球”は希望を歌う歌ではない。希望そのものになろうとする歌である。壮大で希望に満ちた旋律の上に、〈夜明けの来ない夜はない〉という普遍的なメッセージが静かに積み重ねられていく。その歌声は、力強さを誇示するのではなく、慈しむように、包み込むように、一語一語を丁寧に紡いでいく。
この曲のレコーディングは、松田聖子が第一子を身ごもっていた時期と重なる。その事実を知ってあらためて耳を傾けると、この歌唱には新しい生命を見守る母親としての静かなまなざしさえ感じられる。もちろん、それは聴き手の解釈にすぎないのかもしれない。しかし、その穏やかで揺るぎない温もりこそが、“瑠璃色の地球”を時代を超えて愛されるスタンダードへと押し上げた最大の理由なのではないだろうか。
本作は、“螢の草原”という静かな目覚めから始まり、“瑠璃色の地球”という普遍的な祈りへとたどり着く。その流れは、一枚のアルバムが持つ物語性を、これ以上ないほど鮮やかに体現している。『SUPREME』は、トップアイドル・松田聖子の到達点である。そして同時に、その先へ続く旅路の最初の一歩でもあった。
