メジャー・デビュー10周年――気付けばそんなに経ったのか。メジャー・デビューからさらに遡り、SPECIAL OTHERSが初めてCDをリリースしたのは2004年、タワーレコードが〈バイヤー発〉を掲げて新しいアーティストを発掘するために立ち上げたレーベル=NMNL RECORDSからだった。筆者の個人的な思い出で恐縮だが、ある日出社すると、デスクの上にポツンと置かれていたミニ・アルバム『BEN』を発見。冒頭の表題曲は約10分ほどの長尺にもかかわらず、歌はない(あるっちゃあるけど)のに音が〈歌っている〉という独特の聴き心地に、その長さが気にならないほど引き込まれたのをいまでも覚えている。しかし、その数年後に日本武道館でワンマン・ライヴをやるようなバンドになろうとは……正直想像もしていなかった。

が、彼らはそういうバンドになった。派手に何かをしたわけではない。音楽性も何ら変わらず、むしろインスト・バンドとしての粋をいっそう研ぎ澄ませながら淡々と良い作品を発表し続けた――ただそれだけ。メンバーはいまでも若手のような雰囲気で、メジャー・デビュー10周年を掲げて活動するいまでも〈バンドをやってる地元の友達〉みたいで……。無意識的な部分はあるにせよ、その〈変わらない〉SPECIAL OTHERSの10年目の真意を探るべく、フル作としては通算6枚目となるニュー・アルバム『WINDOW』のリリースに合わせてインタヴューを敢行。スペアザの歴史をざっくり辿りながら、改めて彼らの魅力を全2回に渡って紐解いてみようと思う。まず前編は、結成当初からバンドとしてのターニングポイントとなる出来事について順に振り返ってもらった。

SPECIAL OTHERS WINDOW スピードスター(2015)

〈ジャム・バンドやってます〉っていうイメージは全然持ってなくて

――今回はニュー・アルバム『WINDOW』の話も訊きたいのですが、まずはメジャー・デビュー10周年ということなので、この機会にSPECIAL OTHERSのこれまでを振り返ってもらうかと思ってるんです。でも……10周年と言っているわりにはいまだ若手感が(笑)。

宮原良太(ドラムス)「でしょ? 嬉しい」

芹澤優真(キーボード)「それはね、ブレイクしてないから」

――それ関係あります?

宮原「違うよ、へこへこしてるからだよ。プライドが低くて腰も低いから(笑)」

――アハハ(笑)。プライドはそれなりにあるでしょう?

宮原「後輩にタメ口きかれてもそんなになんとも思わないし、逆にタメ口ぐらいのほうがいいやって。そのほうが若手感出るし」

――先輩として扱われるより友達感覚のほうがいいと。それはともかく、結成から数えるともう20年になるんですよね。同じ高校の軽音楽部で、当初はもう2人メンバーがいた……というのをプロフィールで読みましたが、この時はコピー・バンド?

宮原「コピー・バンド」

――その2人が抜けて、いまの4人の編成になったわけですが、その時すでにいまのようなジャム・バンド的な雰囲気はあったんですか?

宮原「その頃はミクスチャーだったり、ラウドな……例えばレイジ(・アゲインスト・ザ・マシーン)とかそういうのが好きだったから、いまの感じでは全然なかったかな。軽くそういうニュアンスはあったけど」

――何がきっかけでいまのようなスタイルに辿り着いたんですか?

宮原「最初はG・ラヴで、ジャム・バンドを好きになったのは〈フジロック〉で観たフィッシュがきっかけっちゃきっかけだけど、友達からポンガギャラクティック、あとMMWメデスキ・マーティン&ウッド)とかを勧められて、それらを聴きはじめた時にジャム・バンドというシーンがあるのを知った。そこからかな。IKO IKOっていうそれ系のものを多く扱っているCD屋さんが渋谷にあって、そこへ行ったり。それからジャム・バンドのライヴにもいろいろ行くようになって、自分たちの音楽にもそういうニュアンスが入ったんじゃないかな」

【参考動画】ギャラクティックの2013年のライヴ映像

 

――いまおっしゃっていたフィッシュのライヴを観た99年の〈フジロック〉の話は、以前からいろんなところでお話されているので知っている人も多いと思うんですが、具体的にどういうところにいちばん衝撃を受けたんですか?

芹澤「フィッシュとかを聴く前に、人力トランスみたいなループ的な音楽はみんな好きでイヴェント行って聴いたりしていたから、(フィッシュにハマる)素養みたいなところはすでに出来てたところがあって、そういう流れからすんなり入れたというのはある。でもこういうアメリカンで明るくてトランシーな音楽って無機質で享楽主義なものが多いけど、フィッシュはそれだけじゃなくて温かみもあって土臭くて南部っぽい感じもあった。何よりカッコイイ兄ちゃんたちとか、おしゃれな人たちがこぞって聴いてる感じが文化的におもしろいなと思ったんだよね」

【参考動画】フィッシュの99年〈フジロック〉でのライヴ映像

 

――バンドの演奏だけじゃなくて、周りのお客さんも含めたライヴ会場のヴァイブみたいなものが?

芹澤「カルチャーみたいなのをすごく感じて。カルチャーを感じるものはその頃すごく楽しかった。グランド・ロイヤル然り、トランス、レイヴ文化然り」

宮原「ドレッドの兄ちゃんだったらトランス聴いてレイヴに行ってるイメージがあったから、フィッシュのようなバンドがそういう層の人たちにウケているというのを知った新鮮味ったらなかったね。一方でジャズのフィールドから出てきたMMWなども含めて〈ジャム・バンド〉っていう括りになってるのがおもしろいなって」

【参考動画】メデスキ・マーティン&ウッドの2005年の東京公演

 

――フィッシュみたいにグレイトフル・デッドの直系チルドレンのような存在も、NYジャズのシーンをベースにしているMMWのようなバンドも〈ジャム・バンド〉とされているところが。

宮原「俺たちはちょうどジャズも好きだったから、自分たちの居場所としてめちゃめちゃ心地いい場所だった」

――ジャズというとどのあたりを聴いていたんですか?

宮原ケニー・ドリューは聴いてたよね。セロニアス・モンクコルトレーンとか。あと横浜だからストリートでジャズをよくやってて、そういうのを観るのもめっちゃ好きだった」

芹澤PE'Zもデカかったな」

宮原「そうだね」

芹澤「PE'Zは衝撃的にカッコ良かった。日本人でこんなにカッコ良くて、こんなジャズ聴いたことないって感じで」

宮原「PE'Zはそのジャム・バンドのイヴェント〈Organic Groove〉で知った。PE'Zが初めてのCDを出したぐらいの時だったよね」

芹澤「そうだね。2001年とかそのくらいじゃないかな」

【参考動画】PE'Zの2002年のミニ・アルバム『Akatsuki』収録曲“Akatsuki”
2009年にリリースされたPE'Zのトリビュート盤
『NOT JAZZ!! BUT PE'Z!!! ~10TH ANNIVERSARY TRIBUTE TO PE'Z~』にてスペアザが同曲をカヴァー

 

――スペアザ自身も〈Organic Groove〉には出演していたし、それ以外でもさまざまなイヴェントでMMWなど海外のバンドと共演する機会がありましたけど、彼らから影響を受けた部分はありましたか?

宮原「ライヴの展開の仕方とか、ソロってどのくらいやってたら飽きるとか、このくらいの尺でこういうふうに華やかにしたら盛り上がるとか、そういうパフォーマンスの基礎的なこと、あとお客さんとしての楽しみ方もそこでかなり学んだかな」

――最近はそういったジャム・バンドが集まって……みたいな機会がなくなっちゃってますよね。

宮原「シーン自体がちょっと。日本でも追随してくるバンドが少なかったっていうのもあるかもしれないから、そういう機会が減ってったんだと思う。まあでも俺たちは当時からジャム・バンドは好きだったけど思いっきり〈ジャム・バンドやってます〉っていうイメージは全然持ってなくて」

芹澤「だから久しぶりの感じのインタヴューだね。ジャム・バンドっていう意識を持ってやってなかったっていう発言すらしてなかったから、そのキーワードすら出てこなかった」

――まあでもそもそも最初はそういう界隈にいたなっていうことで、そういうお話を訊いているわけです。それにしても、デビューする前はライヴハウスのステージに立つことはそんなになかったんですね。

芹澤「(ライヴハウスに)ノルマを払ってやる、みたいなのは1~2回なんじゃないかな。2回目ぐらいでイヤになっちゃったんだよね」

宮原「そうだね。誘われたりしたけど」

芹澤「やっぱりお金がかかるから。レストラン・バーとかはチケット入ったぶんのマージンあげまっせ、ご飯も出しまっせというのでお財布に優しかったし」

宮原「俺たちの肌に合ってたってことだよね。観に来てくれた人とライヴの後に喋ったりして知り合いも増えたし。ライヴハウスだと自分たちのライヴが終わったら楽屋こもって終わりってことがほとんどだから」

芹澤「〈ロックスターと客〉っていう図式みたいなのがあんまりしっくりこなかった」

――なるほど。で、2004年にいまはなき懐かしのNMNLレコーズからCDデビューと。ここに至る経緯は?

芹澤「横浜にMOVEっていうバーがあって、そこで〈HEY MR. MELODY〉というDJイヴェントにバンドで呼ばれて、そこにタワレコ渋谷店のバイヤーだった方がDJとして回していて俺らを見つけてくれた。まさにNMNLレコーズが発足してバイヤー発のアーティストをリリースしようという時だったから、レーベルに俺らを紹介してくれて、レーベルの人も気に入ってくれたんだよね」

――それでリリースされたのが『BEN』と。もう10年以上も前の作品ですが、あんまり懐かしい感じがしないんですよね(笑)。ワンマン・ライヴでは定番の曲が多いからかもしれないです。

芹澤「生意気にもその頃〈この曲はとっておこう〉とか、次があるかもわからないのに、よくわかんない計算してて(笑)。作るの大変だったな」

SPECIAL OTHERS BEN NMNL(2004)

――どういう部分で?

芹澤「何にもわからなくて……CDを作ったこともなかったから」

――でもそれまでにも自主盤は出してたんですよね。

芹澤「自主盤を作ったノウハウなんて、ホント素人に毛が生えたようなもんだから、録り方もわかんないからどう録ったら上手くいくかもわかんないし、音を作るのもどういう音にしていったらいいかまったくわからなくて。時計が1周するぐらい長い時間エンジニアの人とあーだこーだ言いながら作ってた。有意義な無駄な時間だったっていう感じの(笑)」

――ハハハ(笑)。でもその甲斐あって(?)翌2005年には〈フジロック〉に初出演されるわけです。やはり目標としていた感じはありましたか?

宮原「そうだね。遊びに行った時から憧れてたもんね」

芹澤「〈フジロックに出たい〉、と漠然と。ライヴバンドが武道館でやりたいって言うのと同じような感覚で。〈フジロック〉でやることをめざした最初の世代なんじゃないかな。〈フジロック〉が始まったのが高校生くらいの頃だったから、その頃の現場を観て、そこに出ることをめざしてバンドやる、みたいなのは」

宮原「結構早く(実現が)訪れたんだよな、そう考えると」

――ステージに立った時のことは覚えてますか?

宮原「あんまり覚えてないんだけど……昼だった気がするな」

又吉優也(ベース)「昼イチで3日目の〈FIELD OF HEAVEN〉のトップバッターだったのかな。前2日間はずっと雨が降ってて、みんな満足に観られてない雰囲気だったんだよね。で、僕らの時には晴れて、一気に人がバーッて集まってきて」

柳下武史(ギター)「入場規制になるぐらいの感じだった。まだ俺たちが『UNCLE JOHN』も発売してない時だったんで、どこからそんなに人が集まって来たのかなっていう。不思議で」

【参考動画】SPECIAL OTHERSの2005年のミニ・アルバム『UNCLE JOHN』収録曲“Uncle John”

 

宮原「珍しかったんだろうね。こういうインストの音楽をやってる日本人のバンドがほとんどいなかったから重宝がられてたのかもしれない。ヘヴンに来るような人たちに」

――そこから着実にステージを上げていって、2012年には〈GREEN STAGE〉に立つまでになりましたが、いちばん大きいステージから見る景色はやはり違いましたか。

芹澤「グリーンってこんなに広いんだって思ったな。ステージからのほうが広く見えた。〈GREEN STAGE〉に出た人はみんな椅子にサインするんだけど、ノエル・ギャラガーのサインを見た時に、俺が書いたら価値が下がるなと思って書くのをためらった覚えがある(笑)」

――なんですかそれ(笑)。

芹澤「だってノエル・ギャラガーのサインの隣に自分のサインなんか書けるとは思わないじゃん。同列に並べてくれるのが申し訳なさすぎて」

――その年に〈GREEN STAGE〉に出たアーティストが同じ椅子にサインをしていくんですね。

芹澤「そうそう」

――単純に〈やったじゃん!〉って感じですけど。

芹澤「〈やった!〉なんて気持ちになれなかったよ、恐れ多すぎて」

又吉「確かその時もスタッフの人に、〈俺たちが書いたら価値が下がりますよ〉って言ったんだけど、大丈夫ですって言われて渋々書くという(笑)」

――ハハハ(笑)。もっと自信を持ってください。