メジャー・デビュー10周年――気付けばそんなに経ったのか。メジャー・デビューからさらに遡り、SPECIAL OTHERSが初めてCDをリリースしたのは2004年、タワーレコードが〈バイヤー発〉を掲げて新しいアーティストを発掘するために立ち上げたレーベル=NMNL RECORDSからだった。筆者の個人的な思い出で恐縮だが、ある日出社すると、デスクの上にポツンと置かれていたミニ・アルバム『BEN』を発見。冒頭の表題曲は約10分ほどの長尺にもかかわらず、歌はない(あるっちゃあるけど)のに音が〈歌っている〉という独特の聴き心地に、その長さが気にならないほど引き込まれたのをいまでも覚えている。しかし、その数年後に日本武道館でワンマン・ライヴをやるようなバンドになろうとは……正直想像もしていなかった。
が、彼らはそういうバンドになった。派手に何かをしたわけではない。音楽性も何ら変わらず、むしろインスト・バンドとしての粋をいっそう研ぎ澄ませながら淡々と良い作品を発表し続けた――ただそれだけ。メンバーはいまでも若手のような雰囲気で、メジャー・デビュー10周年を掲げて活動するいまでも〈バンドをやってる地元の友達〉みたいで……。無意識的な部分はあるにせよ、その〈変わらない〉SPECIAL OTHERSの10年目の真意を探るべく、フル作としては通算6枚目となるニュー・アルバム『WINDOW』のリリースに合わせてインタヴューを敢行。スペアザの歴史をざっくり辿りながら、改めて彼らの魅力を全2回に渡って紐解いてみようと思う。まず前編は、結成当初からバンドとしてのターニングポイントとなる出来事について順に振り返ってもらった。
〈ジャム・バンドやってます〉っていうイメージは全然持ってなくて
――今回はニュー・アルバム『WINDOW』の話も訊きたいのですが、まずはメジャー・デビュー10周年ということなので、この機会にSPECIAL OTHERSのこれまでを振り返ってもらうかと思ってるんです。でも……10周年と言っているわりにはいまだ若手感が(笑)。
宮原良太(ドラムス)「でしょ? 嬉しい」
芹澤優真(キーボード)「それはね、ブレイクしてないから」
――それ関係あります?
宮原「違うよ、へこへこしてるからだよ。プライドが低くて腰も低いから(笑)」
――アハハ(笑)。プライドはそれなりにあるでしょう?
宮原「後輩にタメ口きかれてもそんなになんとも思わないし、逆にタメ口ぐらいのほうがいいやって。そのほうが若手感出るし」
――先輩として扱われるより友達感覚のほうがいいと。それはともかく、結成から数えるともう20年になるんですよね。同じ高校の軽音楽部で、当初はもう2人メンバーがいた……というのをプロフィールで読みましたが、この時はコピー・バンド?
宮原「コピー・バンド」
――その2人が抜けて、いまの4人の編成になったわけですが、その時すでにいまのようなジャム・バンド的な雰囲気はあったんですか?
宮原「その頃はミクスチャーだったり、ラウドな……例えばレイジ(・アゲインスト・ザ・マシーン)とかそういうのが好きだったから、いまの感じでは全然なかったかな。軽くそういうニュアンスはあったけど」
――何がきっかけでいまのようなスタイルに辿り着いたんですか?
宮原「最初はG・ラヴで、ジャム・バンドを好きになったのは〈フジロック〉で観たフィッシュがきっかけっちゃきっかけだけど、友達からポンガやギャラクティック、あとMMW(メデスキ・マーティン&ウッド)とかを勧められて、それらを聴きはじめた時にジャム・バンドというシーンがあるのを知った。そこからかな。IKO IKOっていうそれ系のものを多く扱っているCD屋さんが渋谷にあって、そこへ行ったり。それからジャム・バンドのライヴにもいろいろ行くようになって、自分たちの音楽にもそういうニュアンスが入ったんじゃないかな」
――いまおっしゃっていたフィッシュのライヴを観た99年の〈フジロック〉の話は、以前からいろんなところでお話されているので知っている人も多いと思うんですが、具体的にどういうところにいちばん衝撃を受けたんですか?
芹澤「フィッシュとかを聴く前に、人力トランスみたいなループ的な音楽はみんな好きでイヴェント行って聴いたりしていたから、(フィッシュにハマる)素養みたいなところはすでに出来てたところがあって、そういう流れからすんなり入れたというのはある。でもこういうアメリカンで明るくてトランシーな音楽って無機質で享楽主義なものが多いけど、フィッシュはそれだけじゃなくて温かみもあって土臭くて南部っぽい感じもあった。何よりカッコイイ兄ちゃんたちとか、おしゃれな人たちがこぞって聴いてる感じが文化的におもしろいなと思ったんだよね」
――バンドの演奏だけじゃなくて、周りのお客さんも含めたライヴ会場のヴァイブみたいなものが?
芹澤「カルチャーみたいなのをすごく感じて。カルチャーを感じるものはその頃すごく楽しかった。グランド・ロイヤル然り、トランス、レイヴ文化然り」
宮原「ドレッドの兄ちゃんだったらトランス聴いてレイヴに行ってるイメージがあったから、フィッシュのようなバンドがそういう層の人たちにウケているというのを知った新鮮味ったらなかったね。一方でジャズのフィールドから出てきたMMWなども含めて〈ジャム・バンド〉っていう括りになってるのがおもしろいなって」
――フィッシュみたいにグレイトフル・デッドの直系チルドレンのような存在も、NYジャズのシーンをベースにしているMMWのようなバンドも〈ジャム・バンド〉とされているところが。
宮原「俺たちはちょうどジャズも好きだったから、自分たちの居場所としてめちゃめちゃ心地いい場所だった」
――ジャズというとどのあたりを聴いていたんですか?
宮原「ケニー・ドリューは聴いてたよね。セロニアス・モンクやコルトレーンとか。あと横浜だからストリートでジャズをよくやってて、そういうのを観るのもめっちゃ好きだった」
芹澤「PE'Zもデカかったな」
宮原「そうだね」
芹澤「PE'Zは衝撃的にカッコ良かった。日本人でこんなにカッコ良くて、こんなジャズ聴いたことないって感じで」
宮原「PE'Zはそのジャム・バンドのイヴェント〈Organic Groove〉で知った。PE'Zが初めてのCDを出したぐらいの時だったよね」
芹澤「そうだね。2001年とかそのくらいじゃないかな」
2009年にリリースされたPE'Zのトリビュート盤
『NOT JAZZ!! BUT PE'Z!!! ~10TH ANNIVERSARY TRIBUTE TO PE'Z~』にてスペアザが同曲をカヴァー
――スペアザ自身も〈Organic Groove〉には出演していたし、それ以外でもさまざまなイヴェントでMMWなど海外のバンドと共演する機会がありましたけど、彼らから影響を受けた部分はありましたか?
宮原「ライヴの展開の仕方とか、ソロってどのくらいやってたら飽きるとか、このくらいの尺でこういうふうに華やかにしたら盛り上がるとか、そういうパフォーマンスの基礎的なこと、あとお客さんとしての楽しみ方もそこでかなり学んだかな」
――最近はそういったジャム・バンドが集まって……みたいな機会がなくなっちゃってますよね。
宮原「シーン自体がちょっと。日本でも追随してくるバンドが少なかったっていうのもあるかもしれないから、そういう機会が減ってったんだと思う。まあでも俺たちは当時からジャム・バンドは好きだったけど思いっきり〈ジャム・バンドやってます〉っていうイメージは全然持ってなくて」
芹澤「だから久しぶりの感じのインタヴューだね。ジャム・バンドっていう意識を持ってやってなかったっていう発言すらしてなかったから、そのキーワードすら出てこなかった」
――まあでもそもそも最初はそういう界隈にいたなっていうことで、そういうお話を訊いているわけです。それにしても、デビューする前はライヴハウスのステージに立つことはそんなになかったんですね。
芹澤「(ライヴハウスに)ノルマを払ってやる、みたいなのは1~2回なんじゃないかな。2回目ぐらいでイヤになっちゃったんだよね」
宮原「そうだね。誘われたりしたけど」
芹澤「やっぱりお金がかかるから。レストラン・バーとかはチケット入ったぶんのマージンあげまっせ、ご飯も出しまっせというのでお財布に優しかったし」
宮原「俺たちの肌に合ってたってことだよね。観に来てくれた人とライヴの後に喋ったりして知り合いも増えたし。ライヴハウスだと自分たちのライヴが終わったら楽屋こもって終わりってことがほとんどだから」
芹澤「〈ロックスターと客〉っていう図式みたいなのがあんまりしっくりこなかった」
――なるほど。で、2004年にいまはなき懐かしのNMNLレコーズからCDデビューと。ここに至る経緯は?
芹澤「横浜にMOVEっていうバーがあって、そこで〈HEY MR. MELODY〉というDJイヴェントにバンドで呼ばれて、そこにタワレコ渋谷店のバイヤーだった方がDJとして回していて俺らを見つけてくれた。まさにNMNLレコーズが発足してバイヤー発のアーティストをリリースしようという時だったから、レーベルに俺らを紹介してくれて、レーベルの人も気に入ってくれたんだよね」
――それでリリースされたのが『BEN』と。もう10年以上も前の作品ですが、あんまり懐かしい感じがしないんですよね(笑)。ワンマン・ライヴでは定番の曲が多いからかもしれないです。
芹澤「生意気にもその頃〈この曲はとっておこう〉とか、次があるかもわからないのに、よくわかんない計算してて(笑)。作るの大変だったな」
――どういう部分で?
芹澤「何にもわからなくて……CDを作ったこともなかったから」
――でもそれまでにも自主盤は出してたんですよね。
芹澤「自主盤を作ったノウハウなんて、ホント素人に毛が生えたようなもんだから、録り方もわかんないからどう録ったら上手くいくかもわかんないし、音を作るのもどういう音にしていったらいいかまったくわからなくて。時計が1周するぐらい長い時間エンジニアの人とあーだこーだ言いながら作ってた。有意義な無駄な時間だったっていう感じの(笑)」
――ハハハ(笑)。でもその甲斐あって(?)翌2005年には〈フジロック〉に初出演されるわけです。やはり目標としていた感じはありましたか?
宮原「そうだね。遊びに行った時から憧れてたもんね」
芹澤「〈フジロックに出たい〉、と漠然と。ライヴバンドが武道館でやりたいって言うのと同じような感覚で。〈フジロック〉でやることをめざした最初の世代なんじゃないかな。〈フジロック〉が始まったのが高校生くらいの頃だったから、その頃の現場を観て、そこに出ることをめざしてバンドやる、みたいなのは」
宮原「結構早く(実現が)訪れたんだよな、そう考えると」
――ステージに立った時のことは覚えてますか?
宮原「あんまり覚えてないんだけど……昼だった気がするな」
又吉優也(ベース)「昼イチで3日目の〈FIELD OF HEAVEN〉のトップバッターだったのかな。前2日間はずっと雨が降ってて、みんな満足に観られてない雰囲気だったんだよね。で、僕らの時には晴れて、一気に人がバーッて集まってきて」
柳下武史(ギター)「入場規制になるぐらいの感じだった。まだ俺たちが『UNCLE JOHN』も発売してない時だったんで、どこからそんなに人が集まって来たのかなっていう。不思議で」
宮原「珍しかったんだろうね。こういうインストの音楽をやってる日本人のバンドがほとんどいなかったから重宝がられてたのかもしれない。ヘヴンに来るような人たちに」
――そこから着実にステージを上げていって、2012年には〈GREEN STAGE〉に立つまでになりましたが、いちばん大きいステージから見る景色はやはり違いましたか。
芹澤「グリーンってこんなに広いんだって思ったな。ステージからのほうが広く見えた。〈GREEN STAGE〉に出た人はみんな椅子にサインするんだけど、ノエル・ギャラガーのサインを見た時に、俺が書いたら価値が下がるなと思って書くのをためらった覚えがある(笑)」
――なんですかそれ(笑)。
芹澤「だってノエル・ギャラガーのサインの隣に自分のサインなんか書けるとは思わないじゃん。同列に並べてくれるのが申し訳なさすぎて」
――その年に〈GREEN STAGE〉に出たアーティストが同じ椅子にサインをしていくんですね。
芹澤「そうそう」
――単純に〈やったじゃん!〉って感じですけど。
芹澤「〈やった!〉なんて気持ちになれなかったよ、恐れ多すぎて」
又吉「確かその時もスタッフの人に、〈俺たちが書いたら価値が下がりますよ〉って言ったんだけど、大丈夫ですって言われて渋々書くという(笑)」
――ハハハ(笑)。もっと自信を持ってください。
進化するというのは新たなことに挑戦することだけじゃない
――ちょっと話を巻き戻しますが、2006年に晴れてメジャー・デビューされます。ここから各地のフェスにたくさん出るようになったんですよね。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのツアーのゲストに抜擢されたというのも大きかったのかもしれませんが。
宮原「確かにアジカンが俺たちを前座にしてくれたのはすごく大きいと自分たちでも思ってて。そこから日本のロック界との接点が生まれた。(バンドとしての)分岐点だったなと思う。あの時の俺らにあんな大きい会場(幕張メッセや横浜アリーナなど)で前座をやらせてくれたアジカンにはめちゃめちゃ感謝してる。フックアップしてくれたってことだよね」
芹澤「ワンマンをやったって300人、400人集めるのがやっとの俺らが5万人の前で出来たんだから」
宮原「ロック・ファンの人たちに俺たちを知ってもらえたわけだしね」
芹澤「〈アジカンがいいって言うなら聴いてやろう〉って心を開いて聴いてくれただろうから」
柳下「しかもその時に知り合ったストレイテナーは、その数年後のコラボに繋がったりとか、いろんなことが始まった」
オオキノブオ(ACIDMAN)&ホリエアツシ(ストレイテナー)を迎えた“あの国まで”
芹澤「あれがなかったらいまでもロック・ファンの人には知られてないかもしれないし。違う形で進化してただろうけど、もっとアンダーグラウンドなものだったかもしれないよね」
――その方向に行ってたらどうなっていたかもちょっと気になりますが(笑)。
宮原「でも出す音はそんなに変わってない気がするな」
芹澤「出す音はきっと変わってないだろうね。主軸は変わってなかったと思う」
――でもそこがブレることなく、インスト主体のバンドがここまで幅広い人気を得られたというのは、かつてないくらいの出来事ではないでしょうか。
宮原「基本的には自分たちがカッコイイと思ったものを出さないと良くないと思ってる。売れよう売れようとしすぎると絶対ダサイものになるから。この4人がホントにカッコイイと思ったものを出していかないと、誰のためにやってる音楽かわからなくなっちゃうと俺は思うんだよな。それでついてきた結果がすべてだと思うから」
又吉「いちばん最初にメジャーで出した『IDOL』の“IDOL”を、曲が長いからちょっと短くしようかってディレクターに相談したら、〈そのままでいいよ、なんで短くする必要あるの?〉って言われて、これでいいんだ、と。だから周りのスタッフもちゃんと僕らがやりたいようにやらせてくれてるから僕らも作りたいように作れてっていう、良いバランスが出来てるっていうのもあるような気がする」
――本当に良い意味でやっていることが変わらないんですよね。もちろん作品ごとにその時のバンドのモードは感じるので、リスナー的なツボとしてはそこが楽しみなんですが。
芹澤「変えようと思ってないね」
宮原「お蕎麦屋さんに行ったらお蕎麦が食べたいわけであって、スペアザのCD買ったらスペアザの音が流れてきてくれないと俺は困るタイプだから。変えようって気は全然ない(笑)」
芹澤「ラーメン屋も味噌ラーメン専門店だった店が醤油ラーメンを始めたらちょっとな……って思わない?」
宮原「思うね」
芹澤「いろんなことを多角的にやることが本当にいいことなのかって思うし、進化するというのは新たなことに挑戦することだけじゃない。ミクロなもののなかにも進化っていろいろあるわけだし」
宮原「逆に俺が思うのは、ミュージシャンって自分の過去の作品に囚われることが多くて、過去の作品に似てる曲を作ってはいけないと思っちゃってるのね、たいていは。でも俺はそうは思ってなくて、その人たちのなかから自然に出てきたものがすべてで、それがそれまでと似てくるのなんてあたりまえ。俺たちは同じコード進行でも気にしない。それが本当の自由だと思うんだよな、音楽を作るうえで。だから俺たちは過去の作品にも縛られないで音楽を作ってる。結構多いんだよね、自分たちの過去がこうだったから、次はこう変えていこうっていうバンドが」
芹澤「その話の流れですごい格好良いアーティストを知ってる……向井秀徳さん。最近の作品(の歌詞)でも〈繰り返される諸行無常〉って言ってたのね。ナンバーガールの頃から言ってたような、ZAZEN BOYSの初期にも言っていた決まり台詞をいまもなお歌詞にしてる。向井さんがインタヴューでそのことを〈1回使っただけじゃもったいないぐらい良い言葉だから(使う)〉って言ってて。聴いてる人に〈またかよ〉ではなく、〈やってくれました〉と思わせているというのがすごくカッコイイよね」
――確かにそうですよね。スペアザに関して〈変わらない〉というのははまったくネガティヴではなくて、むしろ変わられても困ると個人的には思うかも(笑)。
宮原「1曲好きになってくれたら全部好きにさせてしまえる仕組みだね」
――その流れで言うと、2011年のコラボ・アルバム『SPECIAL OTHERS』は結構衝撃的な一枚だったんですよね。それまでシンガーをフィーチャーすることがなかったバンドが……と。コラボ盤として徹底したというのはある意味潔かったかもしれませんが。
宮原「キャリアを重ねてきて、ミュージシャンの知り合いも増えたというのもあったし、新しいことをやる楽しさみたいなのもあった。これまでと違うところを見せるというのは、CDを売っていくうえでも気持ちのいい展開だし……といくつもの考えが重なって、じゃあやってみようってなったのかな」
柳下「単純に自分たちの作ったトラックにどういう歌が乗って、どういう歌詞が乗るのかというのを聴いてみたかった」
芹澤「それまでやらなかった理由は何物でもなく、自分たちがバック・バンドになるのが嫌だったっていうのが大きい。ゲストを入れること自体は楽しいんだけど、例えばすごく有名なシンガーと全然知られていない俺らがコラボしたら、その人がバック・バンドを引き連れてやってるだけになっちゃうから、そういうのが嫌でそれまではやらなかったんだよね。でも単純に(コラボに対する)好奇心はあったし、ここでは俺たちがリスペクトしてるミュージシャンを集めたわけだから、やりたいことをやってるという意味で変わりはない」
宮原「それまでに作っていた曲のストックには歌モノの曲があるんだけど、それはスキルの問題で俺たちが歌うことができなかったから出せなかった。そういう面でも好都合だなと。(コラボ盤を作ることによって)それらの曲を発表する機会が出来たから」
Dragon AshのKjを迎えた“Sailin'”
――なるほど、そうだったんですね! Dragon AshのKjさんなどロック畑のアーティストが多いなかで、MAREWREWとのコラボがおもしろかったですね。まさかのウポポとの共演。
宮原「〈RISING SUN ROCK FES.〉でMAREWREWのライヴを観たんだよね。そしたらヤギ(柳下)が〈MAREWREWとやったら楽しいんじゃない?〉って言いはじめて、それいいね!と」
柳下「物凄い神秘的なライヴをする4人組なんだけど、レコーディングの時はキャピキャピした普通の女の子たちっていう、そのギャップがおもしろかった」
――このアルバムを作るなかで、いちばん印象に残っていることは?
宮原「(コラボした)アーティストごとにあるんですけど、いちばん最初に作ったキヨサクくん(MONGOL800)との“空っぽ”かな。さっき言ったそれまでにストックしていた曲で、それを誰が歌えるか考えた時にキヨサクくんが絶対ハマると思って。キヨサクくんはリハーサルに4時間ぐらい遅れて来たんだっけ?」
芹澤「昼すぎの予定だったのに、夕方の5時半ぐらいに来たの」
宮原「〈うちなータイム〉を感じたよね(笑)」
芹澤「でも特別悪い気はしなくて。〈やあ!〉みたいな感じで来たよね(笑)」
宮原「異文化交流した感じ。それが最初だったからそれ以降もおもしろくなるんじゃないかと思ったな。また違う個性が入ってくるという意味で」
キヨサクを迎えた“空っぽ”
――そして、2012年の〈ものすごい規模の全米ツアー!?〉※。
※NYやメンフィス、ニューオーリンズなどを回り、現地のストリートでゲリラ・ライヴを決行した
芹澤「魔の全米ツアーね。フィジカルが極限に達した。フィジカルでしか語れない」
――そうなんですよねえ。この時のエピソードはムック本(「SPECIAL OTHERS BOOK 2 ~ものすごい規模の全米ツアー!?~」)にもまとめられていたりするので、知っている人も多いと思うんですが、いま振り返ってみてその時に得られたものに気付くことはありますか?
芹澤「アコースティックって結構やれるじゃんという次への橋渡しになった」
宮原「実はアメリカの旅がアコースティック(SPECIAL OTHERS ACOUSTIC)のルーツになってる。アメリカの旅で持って行った楽器たちで演奏して、ちょっと限界を感じたんだよね。もうちょっとこういう音を出したいのにという気持ちがあっても、この楽器だけじゃ足りないってなったりして。でも飛行機に(楽器を)乗っけてストリートでやるわけだから、持ち運びができる楽器がいいとか、そういうことを日本に帰ってからいろいろ反省して出た答えがSPECIAL OTHERS ACOUSTICだったという。アコースティックの曲を作るうえで学んだことが、その後エレクトリックに活かされたりした。アコースティックの曲はピアニカがヴォーカル・ラインの代わりになるから、メロディーから簡単に作れたけど、それがエレクトリックになるとそうはいかない、とかを学んだね。そのメロディー・ラインをどう補おうか、みたいな」
柳下「エレクトリックだと音圧で持っていけるというか、どれだけ踊れるかで作っていくことが多いんだけど、アコースティックだとどうしても音圧だけだと音数も少ないから、逆に空気感だったりメロディーの感じで魅せるっていう。エレクトリックとは全然違うアプローチの仕方、作り方ですごいおもしろかった」
――へぇ~、そんなに違うものなんですね。
芹澤「その礎になったのがNYでのアコースティックだった」
――やっぱり同じアメリカとはいえ、土地によって集まってくる人の雰囲気は違うんですか?
芹澤「全然違うね。NYは都会的な人が多かったし」
宮原「(全体的に言えるのは)日本に比べてめちゃめちゃ音楽に対して寛容」
芹澤「音楽やミュージシャンに対するリスペクトが強い。ミュージシャンって、日本じゃ疎まれることが多いでしょ、外で演奏すれば〈うるせー〉って怒られるし、がんばって音楽続けてデビューめざそうとすれば〈就職しない道楽人〉って言われたり。芸術に対する評価が低い気がする。アメリカだったら、〈ミュージシャンやってる〉って言うと、〈いいねー最高だよね、ミュージシャンって職業は〉という感じ」
宮原「ミュージシャンを応援しようという姿勢がある。NYはせかせかしていて、ウザッたいなと思ってる雰囲気の人もいるけど、ニューオーリンズはストリート・ライヴのメッカみたいなところだから、楽器を広げただけでお金入れてくれたりする」
芹澤「テイク・フリーにしていたCDでも、お金を入れずに持って行く人はいなかった」
〈ものすごい規模の全米ツアー!?〉でのドキュメンタリー映像になっている
――それは素敵ですね!
芹澤「気前がいいっていうよりは、たぶんエンターテイメントを活性化させていく一翼を担ってると思ってるんだよね、一人一人が」
宮原「その通り」
芹澤「お金を入れることでバンドが楽器を買えて、デビューできて、新しい音楽を作り出していく可能性だってあるわけだから」
宮原「自分たちも〈参加してる〉という意識がすごく強いと思った」
芹澤「日本人は忘れちゃってるのかもしれないね、そういう心を。歌舞伎だってさ、合いの手が命なわけじゃない。こっちが歌舞伎を盛り上げてやろうという参加意識が、伝統芸能には確かにあったもので。ちょっとそこがTV的になってるというか、やってる人間と観ている人間との間に隔たりが出来ちゃってる。それはやってる側にも問題があるんだろうけど。アメリカのようにもっと一人一人がエンターテイメントを身近に感じて、自分がその活性化を担ってるという意識を持つようになれば、おもしろいアーティストがもっと出てくるんじゃないかな」



