40年に及ぶ細野晴臣のキャリアを、歴代のエンジニアが細野本人と共に辿った書籍「細野晴臣 録音術~ぼくらはこうして音をつくってきた」が、現時点で3刷を記録するなど話題となっている。同書の著者は、World StandardやSoggy Cheeriosでの活動に加え、プロデューサーとして南寿あさ子やハナレグミ、羊毛とおはならを手掛けてきた鈴木惣一朗。細野が84年に立ち上げたレーベルであるノンスタンダードから音楽家デビューを飾って以来、30年近くに渡って偉大なる音楽家を近くで見てきた人物だ。
鈴木はなぜ、〈録音術〉という観点から細野の歩みに迫ろうと考えたのか? 今回Mikikiでは、「スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア」の著者で、自身もプロ・エンジニアである音楽評論家の高橋健太郎が鈴木にインタヴューする形で、細野とスタジオ録音史について2人に語ってもらった。 *Mikiki編集部
鈴木惣一朗が著した「細野晴臣 録音術」(以下〈録音術〉)は気の遠くなるような労作だ。73年の『HOSONO HOUSE』から2013年の『Heavenly Music』までの細野晴臣のソロ・アルバムに関わった7人のエンジニアにインタヴューを重ねると共に、当時の写真、譜面、マスターテープ、トラックシートなども精査して、アルバム・クレジットを再構成までしている。さらに、細野本人と一緒にそれぞれの作品を振り返っていく。当然ながら、専門的な固有名詞が次々と登場する内容になり、それに対する注釈も膨大なものになっている。
帯には〈これがポップス録音史だ。〉と書いてある。細野晴臣という一人の音楽家に関する本に過ぎないのに、風呂敷を広げすぎではないか?と思えなくもない。だが読み進むにつれて、海外の音楽事情にも敏感に反応しつつ、ジャンルを縦横に横断してきた細野の録音歴を追うだけで、見事に時代の移り変わりが描き出されていくことが分かる。細野のファンにとっては、この本を紐解きながら、それぞれのアルバムを聴き返す体験は、見えなかったものが見える、聴こえなかったものが聴こえる、貴重な時間になるに違いない。僕も少しずつアナログ盤を引っ張り出して、それを重ねて行こうと思っているところではある。
ただ、そうした細野のファン、あるいはレコーディング/エンジニアリングに興味のある人々に向けられた内容とは別のところで、本書は読む者の心を揺さぶる、詩的な情感を讃えてもいる。一編のロード・ムーヴィーのような本と言ってしまってもいいかもしれない。さらに言えば、〈まえがき〉と〈あとがき〉に記されたわずかな言葉のなかに、鈴木惣一朗という音楽家の人生が浮かび上がる、自伝的な本になっているようにすら、僕には感じられた。僕も物書きのプロであり、レコーディング/エンジニアリングに関する専門知識も有するから、エンジニアへのインタヴュー集を一冊の本にすることならできるだろう。しかし、こんなソウルフルな本は絶対に作れない。これは惣一朗さんにしかできない仕事、惣一朗さんがやらねばいけない仕事だと、ため息をつきながら思った。
考えてみれば、10数年前から僕と彼はさまざまなところで顔を合わせてはきたのだが、じっくりと話をしたことはなかった。この機会に一度、そんな時間を作ってみたくなった。
80年代の細野さんは、まだ十分に語られていない
いまだからこそ深みがわかるところもある
――去年、僕がDU BOOKSから出した「スタジオの音が聴こえる」は、今回、惣一朗さんが出した〈録音術〉と重なるところも少なくないんですけれど、一方ですごく対照的なところもある。というのは、僕の本は一切、取材はしていないんですね。調べものと、あとは妄想で書いている。対して、惣一朗さんの本はみっちり取材して作ってある。
「そうですね。取材ありきの本です」
――どのくらいの期間、取材にかかったんですか?
「1年半くらい。立案したのが2年前で、最初は1枚のアルバムで本を作りたいと考えてたんですよ。『オムニ・サイト・シーイング』(細野晴臣の89年作)で1冊作りたいと、最初は稲葉(将樹)さん※1とそういう話をしていた。そうしたら、冨田(恵一)くんの『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』が出た。あれを読んで、半年くらい考えて、やっぱり僕にはできないなと思った。それよりは人と会って、セッションから作っていくほうが自分には向いているんじゃないかと。吉沢(典夫)さん※2とかにお会いしてみたかったし」
※1 DU BOOKS編集長。〈ナイトフライ~〉〈スタジオの音が聴こえる〉〈録音術〉の3冊とも手掛けている
※2 細野晴臣『はらいそ』(78年)のエンジニアリングを手掛けたアルファ・スタジオのチーフ・エンジニア。〈録音術〉3章でフィーチャー
――取材されたエンジニアのなかで、吉沢さんは初対面だったんですよね。他の方々は?
「吉沢さん以外は会ったことありました」
――実は〈スタジオの音が聴こえる〉でも、雑誌(「ステレオサウンド」)に連載している時に、日本のスタジオもやろう、という話はあったんですよ。それでどこをやりたいかなと考えて、もしやるならアルファ・スタジオだと思ったんです。というのは、僕が初めてプロデュースの仕事をして、ミックスダウンを経験したのが、アルファのAスタだったので。
「誰のアルバムですか?」
――『TOKYOディスクジョッキーズ・オンリー』※というコンピレーションです。
※90年に高橋のプロデュースで制作されたコンピ。ECD、ランキン・タクシー、TOKYO No.1 SOUL SET、福富幸宏らが参加
「それは何年前くらいの?」
――90年ですね。僕はスタジオの仕事を始めたのが遅いから。そこで寺田(康彦)さん※1と一緒に初めてミックスを経験したのもあって、アルファ・スタジオには思い入れがあった。それで誰かに話を訊こうと思って、まずは個人的に親しくさせてもらっている和田博己さん※2のところに行ったんです。はちみつぱいのアルバムは開設当初のアルファ・スタジオでレコーディングされているので、当時の話を聞かせてくださいと。でも、和田さんの話だけで、もう大変な量になって、これはいろんな関係者をこうやって取材していったら、すぐに1年くらいかかっちゃうと思った。それで断念したんですよ。
※1 細野晴臣『S-F-X』(84年)、『MEDICINE COMPILATION』(93年)を手掛けたアルファ・スタジオのエンジニア。〈録音術〉4章でフィーチャー
※2 はちみつぱいのベーシスト。音楽プロデューサーを経て、現在は著名なオーディオ評論家
「へ〜。僕もデビュー・アルバム(World Standardの85年作『音楽列車』)の最終作業をアルファ・スタジオでやったから思い入れがあって。それで吉沢さんには一度会ってみたかったし、他のエンジニアの人たちも知ってはいたけれど、じっくり話す機会となると、なかなかないじゃないですか。あと昔のことって、細野さん自身はもう忘却の彼方で、憶えてないことが多いんですよ。だったら、そこに一緒にいたエンジニアの人たちから話を訊いて、そのフィードバックを細野さんに返したら喜ぶんじゃないかと思ったんですよね。それで、〈この7人に会っていくのはどうだろう?〉と提案して、タイトルはトリュフォーの〈映画術〉に倣って、〈録音術〉とすると」
――話は戻りますけれど、当初『オムニ・サイト・シーイング』で一冊の本を作ろうと考えた理由は何だったんですか?
「それは、あのアルバムを制作していた時期に、僕は細野さんの手伝いで事務所にいたんですよ。代官山のミディアムという。それでアラブのライ・ミュージックとかに刺激を受けて、スタジオで作っているのを横で見ていた。これは絶対にマスターピースになるなと思いながら。しかも、出来上がったものを聴いて、さらにビックリした。『泰安洋行』(76年)すら越えていくようなものが、あの“Esashi”から始まるストーリーにはあって」
――僕も細野さんのソロ・アルバムのなかで『オムニ・サイト・シーイング』は特別です。仕事を始めてから聴いたアルバムではダントツで、雑誌の年間のベスト10にも選んだ。いまでも聴きます。
「僕もいまでも聴くし、いまだからこそ深みがわかるところもある。ワールド・ミュージックと言っても、他の人とは全然違うものをやってたんだな、と。『泰安洋行』などのトロピカル時代のものは、いろんな人が語って、ある程度体系化されているじゃないですか。でも、『オムニ・サイト・シーイング』はまだ解き明かされていない」
――そうなんですよね。もちろん、『はらいそ』なども僕は大好きでしたけれど、それは学生時代に一人のファンとして聴いていただけだった。『オムニ・サイト・シーイング』は自分も音楽の仕事をするようになってから作られたアルバムで、僕自身もワールド・ミュージックと関わりがあって、マルタン・メソニエ※とは同い年で仲も良かったし、そういうなかで作られたものをリアルタイムで受け取るスリルがあった。
※ワールド・ミュージック・ブームの仕掛け人となった、フランスの音楽プロデューサー。妻のアミナが『オムニ・サイト・シーイング』にシンガーとして参加
「80年代の細野さんは、まだ十分に語られていない。『フィルハーモニー』(82年)にしてもみんなスルーするんですよ、重要なアルバムなのに」
――『フィルハーモニー』も深いですよね。そういえば僕、ちょうど『フィルハーモニー』を作っている頃に、LDKスタジオ※によく行っていたんですよ。
※アルファ・レコードがかつて所有した東京・護国寺のスタジオ。第1弾作品である『フィルハーモニー』を皮切りに、YENレーベルの多くの作品が制作された
「え、そうなんですか?」
――細野さんがいる時には行ってないですけれど。立花ハジメさんの『H』(82年)の録音を取材したら、学生時代からの友人だった鈴木さえ子ちゃんとかもいて。スタジオにイミュレイターが来て、〈これがイミュレイター!〉となっていたのを憶えています。あと、その時LDKで飯尾(芳史)さん※にもインタヴューしているんですよ。彼はまだハタチそこそこで、その時に飯尾さんから話を聞いて、僕はエンジニアっておもしろい仕事だなと、初めて思ったんですよ。これは道を間違えたかもしれない、僕もそっち行けば良かったと。
※当時、アルファ・レコードに所属したエンジニア。YMOや立花ハジメなどを手掛ける。「録音術」5章でフィーチャー
「健太郎さん、ご自分でもエンジニアやられてるじゃないですか」
――いや、それはどうしてもやりたくなって40歳から始めたんです。飯尾さんに話を訊いて、僕もエンジニアになれば良かったと思ったのは、それよりずっと前の20代半ばの頃ですね。で、その時のインタヴューでも訊いた話が、今回の『録音術』でも語られてたりして、いろいろ当時のことを思い出しました。でも、この本がおもしろいのは、エンジニアの人たちの話はディープだけれども、当の細野さんの話は薄いですよね。細野さんの本のようでいて、重心はそこにはない。
「そう、細野さんのトーク部分は軽やか」
――細野さんって、時代を越えて、ジャンルを越えて、ルーツ・ミュージックからエレクトロ・ミュージックまで一人でカヴァーしてしまう。だから、細野さんと関わるエンジニアの人から話を聞くだけで、〈録音術〉の変遷、スタジオやエンジニアに関わるいろんなことが見えてくる。
「そうですねえ」
――でも、そういう細野さんの存在は触媒的なもので、実はこの本で一番わかるのは鈴木惣一朗さんのことですよね。
「そうなんですか? でも、自分の個人的な経験や思いを書くか書かないかは迷って、最初に吉野金次さん※1の取材を終えた時に、スタッフ・ミーティングをしたんです。その頃はまだ、どういう本にするべきか揺れていて。これはどうやってもアーティスト本にはならないなと。でも、エンジニアの人たちと会うことによって、何かが浮き彫りになる。それでいいんじゃないかと。細野さんも忘れちゃっているけれど、エンジニアの人たちも年配の方々だと、もう憶えていなかったりするんですよね。田中(信一)さん※2は、いまでもご活躍されていますが、当時のことはかなり忘れられていた。だから、そんなに細野さんの話は訊き出せないんだけど、田中さん自身はすごくおもしろいし、僕は興味がある。普通の人は名前も知らないかもしれない7人のエンジニアに会って、その地味な話をどうまとめたらおもしろくなるか。そこは揺れがありましたね」
※1 日本で初のフリーランスのエンジニア。はっぴいえんどとの仕事を経て、『HOSONO HOUSE』(73年)を手掛けた。〈録音術〉1章でフィーチャー
※2 『トロピカル・ダンディー』(75年)、『泰安洋行』を手掛ける。〈録音術〉2章でフィーチャー
――僕の本なんか、アーティスト本どころかスタジオ本なんで、〈そんなもの誰が読むの?〉と言われてましたよ(笑)。でも蓋を開けてみたら、おもしろがってくれる人がたくさんいた。
「いや、それは見ていて励みになりましたよ」
――〈録音術〉もコラムの形で、海外のスタジオやエンジニアの話が出てくるじゃないですか。ベアズヴィル・スタジオのように僕の本と重なるところもあったり。でも、アル・シュミット※の話とかは、初めて知ることもあった。
※プロデューサーのトミー・リピューマとのコンビで、いわゆる〈A&Mサウンド〉を作り上げた伝説的なエンジニア
「そうそう。アル・シュミットはエンジニアじゃなかったという」
――あと、彼がもともとはラジオ・レコーダーズ出身だということも書いてありましたよね。最近ちょうど、そのLAのラジオ・レコーダーズのことを調べてたんですよ。1920年代の終わりに作られた古いスタジオなんですよね。1930年にそこで、ジミー・ロジャース※とルイ・アームストロングがセッションしている。
※カントリー・ミュージックの最初のスーパースター。1927年にデビュー。1933年に死去するまでに100曲以上を録音
「へ〜、それ音源も残っているんですか? 聴いてみたい」
――残っています。でも長い間、ジミー・ロジャースのバックでルイ・アームストロングが吹いているのは秘密にされていたんですよ。当時はレイス・ミュージック(人種音楽)の時代だったから、カントリー(白人)とジャズ(黒人)のミュージシャンはイメージ的に隔離されている必要があった。ラジオ・レコーダーズはその後、(エルヴィス・)プレスリーの録音などにも使われるんですけれど、アル・シュミットがそこの出身だというのは、惣一朗さんの本で初めて知りました。