40年に及ぶ細野晴臣のキャリアを、歴代のエンジニアが細野本人と共に辿った書籍「細野晴臣 録音術~ぼくらはこうして音をつくってきた」が、現時点で3刷を記録するなど話題となっている。同書の著者は、World StandardやSoggy Cheeriosでの活動に加え、プロデューサーとして南寿あさ子やハナレグミ、羊毛とおはならを手掛けてきた鈴木惣一朗。細野が84年に立ち上げたレーベルであるノンスタンダードから音楽家デビューを飾って以来、30年近くに渡って偉大なる音楽家を近くで見てきた人物だ。

鈴木はなぜ、〈録音術〉という観点から細野の歩みに迫ろうと考えたのか? 今回Mikikiでは、「スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア」の著者で、自身もプロ・エンジニアである音楽評論家の高橋健太郎が鈴木にインタヴューする形で、細野とスタジオ録音史について2人に語ってもらった。 *Mikiki編集部

鈴木惣一朗 細野晴臣 録音術 ぼくらはこうして音をつくってきた DU BOOKS(2015)

 

鈴木惣一朗が著した「細野晴臣 録音術」(以下〈録音術〉)は気の遠くなるような労作だ。73年の『HOSONO HOUSE』から2013年の『Heavenly Music』までの細野晴臣のソロ・アルバムに関わった7人のエンジニアにインタヴューを重ねると共に、当時の写真、譜面、マスターテープ、トラックシートなども精査して、アルバム・クレジットを再構成までしている。さらに、細野本人と一緒にそれぞれの作品を振り返っていく。当然ながら、専門的な固有名詞が次々と登場する内容になり、それに対する注釈も膨大なものになっている。

帯には〈これがポップス録音史だ。〉と書いてある。細野晴臣という一人の音楽家に関する本に過ぎないのに、風呂敷を広げすぎではないか?と思えなくもない。だが読み進むにつれて、海外の音楽事情にも敏感に反応しつつ、ジャンルを縦横に横断してきた細野の録音歴を追うだけで、見事に時代の移り変わりが描き出されていくことが分かる。細野のファンにとっては、この本を紐解きながら、それぞれのアルバムを聴き返す体験は、見えなかったものが見える、聴こえなかったものが聴こえる、貴重な時間になるに違いない。僕も少しずつアナログ盤を引っ張り出して、それを重ねて行こうと思っているところではある。

ただ、そうした細野のファン、あるいはレコーディング/エンジニアリングに興味のある人々に向けられた内容とは別のところで、本書は読む者の心を揺さぶる、詩的な情感を讃えてもいる。一編のロード・ムーヴィーのような本と言ってしまってもいいかもしれない。さらに言えば、〈まえがき〉と〈あとがき〉に記されたわずかな言葉のなかに、鈴木惣一朗という音楽家の人生が浮かび上がる、自伝的な本になっているようにすら、僕には感じられた。僕も物書きのプロであり、レコーディング/エンジニアリングに関する専門知識も有するから、エンジニアへのインタヴュー集を一冊の本にすることならできるだろう。しかし、こんなソウルフルな本は絶対に作れない。これは惣一朗さんにしかできない仕事、惣一朗さんがやらねばいけない仕事だと、ため息をつきながら思った。

考えてみれば、10数年前から僕と彼はさまざまなところで顔を合わせてはきたのだが、じっくりと話をしたことはなかった。この機会に一度、そんな時間を作ってみたくなった。

「録音術」に掲載された、アルファ・スタジオAでの細野(79年)

 

80年代の細野さんは、まだ十分に語られていない
いまだからこそ深みがわかるところもある

――去年、僕がDU BOOKSから出した「スタジオの音が聴こえる」は、今回、惣一朗さんが出した〈録音術〉と重なるところも少なくないんですけれど、一方ですごく対照的なところもある。というのは、僕の本は一切、取材はしていないんですね。調べものと、あとは妄想で書いている。対して、惣一朗さんの本はみっちり取材して作ってある。

「そうですね。取材ありきの本です」

――どのくらいの期間、取材にかかったんですか?

「1年半くらい。立案したのが2年前で、最初は1枚のアルバムで本を作りたいと考えてたんですよ。『オムニ・サイト・シーイング』(細野晴臣の89年作)で1冊作りたいと、最初は稲葉(将樹)さん※1とそういう話をしていた。そうしたら、冨田(恵一)くんの『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』が出た。あれを読んで、半年くらい考えて、やっぱり僕にはできないなと思った。それよりは人と会って、セッションから作っていくほうが自分には向いているんじゃないかと。吉沢(典夫)さん※2とかにお会いしてみたかったし」

※1 DU BOOKS編集長。〈ナイトフライ~〉〈スタジオの音が聴こえる〉〈録音術〉の3冊とも手掛けている
※2 細野晴臣『はらいそ』(78年)のエンジニアリングを手掛けたアルファ・スタジオのチーフ・エンジニア。
〈録音術〉3章でフィーチャー

――取材されたエンジニアのなかで、吉沢さんは初対面だったんですよね。他の方々は?

「吉沢さん以外は会ったことありました」

――実は〈スタジオの音が聴こえる〉でも、雑誌(「ステレオサウンド」)に連載している時に、日本のスタジオもやろう、という話はあったんですよ。それでどこをやりたいかなと考えて、もしやるならアルファ・スタジオだと思ったんです。というのは、僕が初めてプロデュースの仕事をして、ミックスダウンを経験したのが、アルファのAスタだったので。

「誰のアルバムですか?」

――『TOKYOディスクジョッキーズ・オンリー』※というコンピレーションです。

※90年に高橋のプロデュースで制作されたコンピ。ECD、ランキン・タクシー、TOKYO No.1 SOUL SET、福富幸宏らが参加

「それは何年前くらいの?」

――90年ですね。僕はスタジオの仕事を始めたのが遅いから。そこで寺田(康彦)さん※1と一緒に初めてミックスを経験したのもあって、アルファ・スタジオには思い入れがあった。それで誰かに話を訊こうと思って、まずは個人的に親しくさせてもらっている和田博己さん※2のところに行ったんです。はちみつぱいのアルバムは開設当初のアルファ・スタジオでレコーディングされているので、当時の話を聞かせてくださいと。でも、和田さんの話だけで、もう大変な量になって、これはいろんな関係者をこうやって取材していったら、すぐに1年くらいかかっちゃうと思った。それで断念したんですよ。

※1 細野晴臣『S-F-X』(84年)、『MEDICINE COMPILATION』(93年)を手掛けたアルファ・スタジオのエンジニア。〈録音術〉4章でフィーチャー
※2 はちみつぱいのベーシスト。音楽プロデューサーを経て、現在は著名なオーディオ評論家

「へ〜。僕もデビュー・アルバム(World Standardの85年作『音楽列車』)の最終作業をアルファ・スタジオでやったから思い入れがあって。それで吉沢さんには一度会ってみたかったし、他のエンジニアの人たちも知ってはいたけれど、じっくり話す機会となると、なかなかないじゃないですか。あと昔のことって、細野さん自身はもう忘却の彼方で、憶えてないことが多いんですよ。だったら、そこに一緒にいたエンジニアの人たちから話を訊いて、そのフィードバックを細野さんに返したら喜ぶんじゃないかと思ったんですよね。それで、〈この7人に会っていくのはどうだろう?〉と提案して、タイトルはトリュフォーの〈映画術〉に倣って、〈録音術〉とすると」

細野の84年作『S-F-X』収録曲“Body Snatchers”。ヒップホップを意識したドラムマシンの連打が痛快なナンバー

 

90年のコンピ盤『TOKYOディスクジョッキーズ・オンリー』収録曲、ECD & DJ DOC.HOLIDAY(須永辰緒)“マンション”

 

――話は戻りますけれど、当初『オムニ・サイト・シーイング』で一冊の本を作ろうと考えた理由は何だったんですか?

「それは、あのアルバムを制作していた時期に、僕は細野さんの手伝いで事務所にいたんですよ。代官山のミディアムという。それでアラブのライ・ミュージックとかに刺激を受けて、スタジオで作っているのを横で見ていた。これは絶対にマスターピースになるなと思いながら。しかも、出来上がったものを聴いて、さらにビックリした。『泰安洋行』(76年)すら越えていくようなものが、あの“Esashi”から始まるストーリーにはあって」

細野の89年作『オムニ・サイト・シーイング』収録曲“Esashi”

 

――僕も細野さんのソロ・アルバムのなかで『オムニ・サイト・シーイング』は特別です。仕事を始めてから聴いたアルバムではダントツで、雑誌の年間のベスト10にも選んだ。いまでも聴きます。

「僕もいまでも聴くし、いまだからこそ深みがわかるところもある。ワールド・ミュージックと言っても、他の人とは全然違うものをやってたんだな、と。『泰安洋行』などのトロピカル時代のものは、いろんな人が語って、ある程度体系化されているじゃないですか。でも、『オムニ・サイト・シーイング』はまだ解き明かされていない」

――そうなんですよね。もちろん、『はらいそ』なども僕は大好きでしたけれど、それは学生時代に一人のファンとして聴いていただけだった。『オムニ・サイト・シーイング』は自分も音楽の仕事をするようになってから作られたアルバムで、僕自身もワールド・ミュージックと関わりがあって、マルタン・メソニエ※とは同い年で仲も良かったし、そういうなかで作られたものをリアルタイムで受け取るスリルがあった。

※ワールド・ミュージック・ブームの仕掛け人となった、フランスの音楽プロデューサー。妻のアミナが『オムニ・サイト・シーイング』にシンガーとして参加

「80年代の細野さんは、まだ十分に語られていない。『フィルハーモニー』(82年)にしてもみんなスルーするんですよ、重要なアルバムなのに」

――『フィルハーモニー』も深いですよね。そういえば僕、ちょうど『フィルハーモニー』を作っている頃に、LDKスタジオ※によく行っていたんですよ。

※アルファ・レコードがかつて所有した東京・護国寺のスタジオ。第1弾作品である『フィルハーモニー』を皮切りに、YENレーベルの多くの作品が制作された

「え、そうなんですか?」

――細野さんがいる時には行ってないですけれど。立花ハジメさんの『H』(82年)の録音を取材したら、学生時代からの友人だった鈴木さえ子ちゃんとかもいて。スタジオにイミュレイターが来て、〈これがイミュレイター!〉となっていたのを憶えています。あと、その時LDKで飯尾(芳史)さん※にもインタヴューしているんですよ。彼はまだハタチそこそこで、その時に飯尾さんから話を聞いて、僕はエンジニアっておもしろい仕事だなと、初めて思ったんですよ。これは道を間違えたかもしれない、僕もそっち行けば良かったと。

※当時、アルファ・レコードに所属したエンジニア。YMOや立花ハジメなどを手掛ける。「録音術」5章でフィーチャー

「健太郎さん、ご自分でもエンジニアやられてるじゃないですか」

――いや、それはどうしてもやりたくなって40歳から始めたんです。飯尾さんに話を訊いて、僕もエンジニアになれば良かったと思ったのは、それよりずっと前の20代半ばの頃ですね。で、その時のインタヴューでも訊いた話が、今回の『録音術』でも語られてたりして、いろいろ当時のことを思い出しました。でも、この本がおもしろいのは、エンジニアの人たちの話はディープだけれども、当の細野さんの話は薄いですよね。細野さんの本のようでいて、重心はそこにはない。

「そう、細野さんのトーク部分は軽やか」

――細野さんって、時代を越えて、ジャンルを越えて、ルーツ・ミュージックからエレクトロ・ミュージックまで一人でカヴァーしてしまう。だから、細野さんと関わるエンジニアの人から話を聞くだけで、〈録音術〉の変遷、スタジオやエンジニアに関わるいろんなことが見えてくる。

「そうですねえ」

細野の82年作『フィルハーモニー』収録曲“Sports Men”。飯尾が〈録音術〉のなかで、本作のレコーディング中盤に、サンプリング・キーボードの草分けであるイミュレイターがスタジオに届いたと語っている

 

YENからリリースされた、立花ハジメの82年作『H』収録曲“H (Theme From Clubfoot)”

 

――でも、そういう細野さんの存在は触媒的なもので、実はこの本で一番わかるのは鈴木惣一朗さんのことですよね。

「そうなんですか? でも、自分の個人的な経験や思いを書くか書かないかは迷って、最初に吉野金次さん※1の取材を終えた時に、スタッフ・ミーティングをしたんです。その頃はまだ、どういう本にするべきか揺れていて。これはどうやってもアーティスト本にはならないなと。でも、エンジニアの人たちと会うことによって、何かが浮き彫りになる。それでいいんじゃないかと。細野さんも忘れちゃっているけれど、エンジニアの人たちも年配の方々だと、もう憶えていなかったりするんですよね。田中(信一)さん※2は、いまでもご活躍されていますが、当時のことはかなり忘れられていた。だから、そんなに細野さんの話は訊き出せないんだけど、田中さん自身はすごくおもしろいし、僕は興味がある。普通の人は名前も知らないかもしれない7人のエンジニアに会って、その地味な話をどうまとめたらおもしろくなるか。そこは揺れがありましたね」

※1 日本で初のフリーランスのエンジニア。はっぴいえんどとの仕事を経て、『HOSONO HOUSE』(73年)を手掛けた。〈録音術〉1章でフィーチャー
※2 『トロピカル・ダンディー』(75年)、『泰安洋行』を手掛ける。〈録音術〉2章でフィーチャー

細野の75年作『トロピカル・ダンディー』収録曲“Hurricane Dorothy”

 

――僕の本なんか、アーティスト本どころかスタジオ本なんで、〈そんなもの誰が読むの?〉と言われてましたよ(笑)。でも蓋を開けてみたら、おもしろがってくれる人がたくさんいた。

「いや、それは見ていて励みになりましたよ」

――〈録音術〉もコラムの形で、海外のスタジオやエンジニアの話が出てくるじゃないですか。ベアズヴィル・スタジオのように僕の本と重なるところもあったり。でも、アル・シュミット※の話とかは、初めて知ることもあった。

※プロデューサーのトミー・リピューマとのコンビで、いわゆる〈A&Mサウンド〉を作り上げた伝説的なエンジニア

「そうそう。アル・シュミットはエンジニアじゃなかったという」

――あと、彼がもともとはラジオ・レコーダーズ出身だということも書いてありましたよね。最近ちょうど、そのLAのラジオ・レコーダーズのことを調べてたんですよ。1920年代の終わりに作られた古いスタジオなんですよね。1930年にそこで、ジミー・ロジャース※とルイ・アームストロングがセッションしている。

※カントリー・ミュージックの最初のスーパースター。1927年にデビュー。1933年に死去するまでに100曲以上を録音

「へ〜、それ音源も残っているんですか? 聴いてみたい」

――残っています。でも長い間、ジミー・ロジャースのバックでルイ・アームストロングが吹いているのは秘密にされていたんですよ。当時はレイス・ミュージック(人種音楽)の時代だったから、カントリー(白人)とジャズ(黒人)のミュージシャンはイメージ的に隔離されている必要があった。ラジオ・レコーダーズはその後、(エルヴィス・)プレスリーの録音などにも使われるんですけれど、アル・シュミットがそこの出身だというのは、惣一朗さんの本で初めて知りました。

アル・シュミットが再ミックスを手掛けた、YMOの79年作『Yellow Magic Orchestra』(US版)収録曲“Tong Poo”

 

ジミー・ロジャースとルイ・アームストロングのセッション音源

 

 

スタジオがどんどん閉鎖されていくので
こういう本を作ったというところもある

――で、僕の本もそうですけれど、レコーディング・スタジオって20世紀の文化だから、いま書き残しておかないと、失われていく話が多いと思うんですよね。この〈録音術〉は細野さんという一人のアーティストに焦点を当てつつも、アナログ~デジタル~プロトゥールスみたいな録音方式の変遷を追うものになっていたり、でも最後に(2013年作『Heavenly Music』で)リボン・マイクが蘇ってきたり、そういうのがすごくおもしろかった。

「僕自身も85年にデビューして、奇しくもアナログ~デジタル~DAWという変遷を辿ってきているんですよね」

――『音楽列車』の録音はアナログだったんですか?

「そうです、テイチクのグリーンバードというスタジオで。あそこはモニターがアルテックの銀箱で、当時の僕には難しかった。それがクラウンに移ったら、三菱の32トラックのデジタルになって。自分もそうだったし、それが細野さんの音変遷ともクロスしている。そのへん、すべてを追えている世代って健太郎さんや僕がギリギリじゃないですか」

細野の2013年作『Heavenly Music』収録曲“The House Of Blue Lights”

 

World Standardの86年作『ダブル・ハピネス』収録曲“パシオ”

 

――いや、僕は初めてアルファ・スタジオに入ったのが90年ですから、デジタル(の時代)しか知らないんですよ。自分でエンジニアをやるようになったのは、プロトゥールス以後だし。アナログ時代のことは経験してなくて、だから憧れもある。

「僕はデビュー盤の最後の編集作業をアルファ・スタジオでやったんですよ。エンジニアの土井(章嗣)くん※1と2人で、朝までかけてテープ編集をやった。〈このくらいで切ったらいいの〉とか。そういうアナログ・テープの編集って、見た目でわかる世界だったじゃないですか。でも、それがデジタルになるとブラックボックス化して見えなくなっていく。それはいわゆる打ち込みレコーディングの弊害じゃないかなと思っていて。アナログでやってた80年代は、ミュージシャン、シンガー、プロデューサー、ディレクターがみんなスタジオにいて、いま何をやってるのかが瞬時にわかる時代だったんですよ。でも、MC-4※2で打ち込みとかするようになると、後ろのギャラリーは何をやっているのかわからない。そして今度はプロトゥールスになると、家に帰って直したりしちゃうじゃないですか。アーティストが自分で歌を直して、持ってきたりして。みんなで作ってた時は、みんながわかる状態で仕事してた。ところが(現在は)覗ける人しか覗けない部分が多くなって、それは決して良いこととは思えない。みんなでワイワイやりながら、手間隙かけて作ったものは、音楽に宿る温度が全然違う」

※1 アルファ・スタジオ出身のエンジニア。鈴木総一朗のプロデュース作に数多く参加
※2 YMOが使用したローランドのデジタル・シーケンサー

――それが〈スタジオの空気感〉みたいなことかもしれませんね。

「10年くらい前に、僕はMIDIを止めて、プラグインも全部捨てちゃったんですよ。プラグインはOSを変えたら、使えなくなるじゃないですか。だったらもう、ベーシックなことしかできないようにしちゃおうと。まず、画面を見ながら演奏するのがもう嫌なんですよ。それはここ5、6年の強い傾向ですね。みんなでワイワイを体験しているから(笑)。いまのミュージシャンはあのリージョン画面、コンピューターの箱の中で自由に作るでしょう。それはかつてからすれば、夢のような箱なんだけれど、一方で原始的にやってた音楽の温度ってあるじゃないですか。僕からすると、昔のロックを聴きすぎたせいかもしれないけれど、ザ・バンドしかり、すごく原始的だったと思うんですよ。きっと位相とかもめちゃくちゃで。でも、その音に感動してきちゃった」

ベアズヴィル・スタジオで録音された、ザ・バンドの71年作『Life Is A Carnival』(「スタジオの音が聴こえる」1章で紹介)。

 

――確かに、DAW以後の人達は世代的に感覚がまったく違いますね。

「そう、マイク立てるのは面倒臭いとか、もはやエアー録音はダサイみたいな。でも、マイクを立てたり、スタジオがハコ鳴りをしていたり、というのはすごく贅沢なことで。ハコのアンビエンスをシミュレートして、それはプラグインでも似たようなことはできるとはいえ、やっぱり全然違う。この本のために飯尾くんと会った時、いまでもフェアチャイルドは自分で搬入すると言ってました。あんなに重いのに。でも、それが彼の命なんですよ。フェアチャイルドのプラグインと調整されたアウトボードを持ち込むのとでは絶対に違う。その努力は音に出るし、健太郎さんや僕などはその差異を聞き分けられる世代じゃないですか。でも、同じようなものだとして割りきっていくのがいまの人たちなんだろうな」

――どうなんでしょう? 僕は経験があるから聴き分けられるというのではない気がするんですよ。〈スタジオの音が聴こえる〉を作っていておもしろかったのは、僕はずっとニーヴ※1信者だったんですよ。ところが、本に出てくるスタジオは、調べてみると、ほとんどニーヴは使ってなかったんですね。僕が10代の頃に好きで聴いていたアメリカのレコードは、ほとんどニーヴではなくて、クォードエイト※2が多かったり。当時はスタジオごとにいろいろなコンソールが使われていた。でも、よく考えてみたら、15歳の時にも何となくそれは聴き取っていたんです。イギリスのサウンドとアメリカのサウンドは違う、NYのサウンドと西海岸のサウンドは違うみたいなことは。当時はその理由まではわからなかったけれど、違いは15歳でも聴き分けていたと思うんですよね。

※1 ルパート・ニーヴを創始者とするイギリスのコンソール・メーカー。世界中のレコーディング・スタジオで高い人気を誇る
※2 米西海岸のコンソール・メーカー。ベアズヴィル・スタジオなど、70年代のワーナー系のスタジオに多く使われた

「感受性というか、聴き取る能力は老いてくと衰えていくから、いまの子たちもあるとは思うんですよね。そういうネクスト・ジェエレーションが出てきたらおもしろいな。でも、クォードエイトについては、細野さんが(実際に)使っているのを見たことはないんですけれど、〈自分には品が良すぎる〉と言ってましたね。でも、〈あれが一番いいんじゃないか〉とも」

デヴィッド・ボウイの77年作『Heroes』収録曲“Beauty And The Beast”。ハンザ・スタジオに備えられていた、ニーヴのコンソールによる重厚なサウンドが際立つ(〈スタジオの音が聴こえる〉9章で紹介)

 

――抜けの良さとか、中域の明るさとかですかね。

「都内にクォードエイトのスタジオってありました?」

――僕は一度だけ、笹塚の商店街の地下にあったスタジオで、録りに使ったことありますね。細野さんはトライデント※が一番好きだったというのは、この本で知って、ちょっと驚きました。

※デヴィッド・ボウイやクイーンが本拠にしたロンドンのトライデント・スタジオのエンジニアが開発したコンソール

トライデント・スタジオで録音された、デヴィッド・ボウイの72年作『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders from Mars』収録曲“Starman” (〈スタジオの音が聴こえる〉15章で紹介)

 

「ナッシュヴィルとか、南部の人はトライデントが大好きなんですよ。木目でカッコイイから。僕も田辺マモルくんのプロデュースで3週間くらいナッシュヴィルに行った時にトライデントを使っていて、それ以来、あの音が大好きになっちゃった。良い感じで歪むんですよ」

――ナッシュヴィルとトライデントって、イメージ的には結びつかないですけれど。

「でも、その時の(現地の)インペグ屋※さんは超ハイファイ志向で、〈ヴィンテージ最高!〉みたいな感覚はこっちではダメだって言われましたね」

※スタジオ・ミュージシャンの手配を行う専門の事務所

鈴木惣一朗がプロデュースした、田辺マモルの97年作『田辺マモルのヤング・アメリカン』収録曲“アメリカが教えてくれた”

 

――ああ、カントリーの人はそうかもしれない。

「だから、タカミネ※を弾けと。何でオールド・ギブソンとか、そんなことばっかり言ってるんだと、タカミネが世界で一番いいじゃないかと」

※日本で初めて本格的なエレクトリック・アコースティック・ギターを発表した、岐阜県中津川市にあるギターメーカー

――〈シャリーン〉みたいな!

「そう、だから考え方が全然違うんだなと。(アメリカ南部のヴィンテージ志向は)幻想なんだなと」

――おもしろいですね、互いに持ってないものを求めてしまうという。僕は2011年の震災の直後に、LDKスタジオで仕事する機会があって、その時、初めてトライデントを触りました。〈うわ~、これがトライデントの音か〉と、ようやく知った。

「LDKは、去年なくなってしまった。都内でもスタジオがどんどん閉鎖されていくので、こういう本を作ったというところもあります。スタジオもクローズしていくし、知り合いのエンジニアも仕事が減っていく。だから、みんなアイドル(仕事)やってますよ、サウンドは打ち込みで。それが僕との仕事になると、オールド・スタイルで、マイク立てて、となるから(エンジニア側も)きっとおもしろいんでしょうね。〈音楽やってる感〉を戻してあげられるというか」

――この本はそういう惣一朗さんのエンジニアへの思いもわかりますね。でも、さっきも言ったように、僕がこの本で初めてよくわかったのは〈鈴木惣一朗さん〉なんですよ。

「え、それは僕がどういう人なのかわかったということですか?」

――端的に言えば、そうです。惣一朗さんとは、いろんなところですれ違ってきたけれど、この本に書いてあるような内面的なことは知らないことばかりだった。アルバムがオクラになった前後のこととか※、あるいは細野さんの事務所で働いていた時代、音楽は一切作らなかったとか。

※89年に、鈴木がエブリシング・プレイ名義で制作したアルバム『POSH』はリリース中止の憂き目にあった。その後、92年にリリース

「あ〜、そのへんはこれまで話したことがなかった」

――それから何よりも、細野さんとの関係。この本にも〈細野さんの音楽を研究するつもりはない〉と書いてあるじゃないですか。それもたぶん、言ったことないですよね。

「ないです、今回初めてです」

――とすると、じゃあ、鈴木惣一朗さんと細野さんの関係って何なんだろうと。ミュージシャン同士というわけでもなく、研究者というわけでもなく、でも、細野さんにこだわり続けている。それが昔から不思議だったんですけれど、よくわからないなりに、その微妙な距離感の在り方がこの本で初めてよく見えたというか。

「5年に一度、平凡社で〈分福茶釜〉という(シリーズの)対談集を作っていて、去年、『とまっていた時計がまたうごきはじめた』というのを出したんですが、それはもっとよくわからない状態。細野さんと僕がのらりくらり、禅問答みたいなのをしていて、結局、そこには言ってしまえば何もないんですよ。ただただそばにいるだけ。だからこそ続いているのだろうし。細野さんに教えを請うとかいうつもりもないし」

――弟子でもないと。

「ただ、30年前は(細野さんに対して)もっと生意気でタメ口だったんですよ。だから、失礼な奴だって、細野さんはおもしろがったんだと思うけれど、でも、さっきの『オムニ・サイト・シーイング』の話もそうだけれど、30年かけて細野さんの凄みがもっとわかってきて、最近は敬語で話す自分が増えている。でも、やっぱりそれもつまんないから、タメ口に戻したりするんだけれど、周りの人は細野さんというと、恐れ多い感じで扱うじゃないですか。それだと、細野さんは裸の王様みたいになっちゃって、もったいないなと思っちゃう。もっともっとおもしろいところがあるから、僕は近付きたかったんですよ。この業界、浮き沈みがあるから、いろんな人が細野さんのところにやってきて、いなくなって、というのを30年かけて見てきました。でも、僕はちょっと離れたところから定点観測している感じ。ただ、2006年に〈東京シャイネス〉で4回くらいライヴをやった時は、ミュージシャンとして一番接近したんです。その時に僕は〈これは危ないな〉と思ったんです。一緒に演奏すると、いろんなことがわかっちゃうから。こういうフワフワした感じは保てないでしょうね」

細野、2006年の〈東京シャイネス〉での“はらいそ”のライヴ映像。鈴木はマンドリンで参加

 

――そういう意味では、音楽的な関係でもないんですね。

「あの、よくある問答ですけど、僕は音楽が好きなのか、それとも音楽を作っている人が好きなのか?  作品至上主義ならば、すごく性格が悪い人が素晴らしい音楽を作ったとしても、それは素晴らしいって思わないといけないじゃないですか。人とは切り離して、冷静に聴かなきゃいけない。ところが、僕はダメなんですよ。どうしても伝記とか読んじゃう。伝記マニアだから」

――あ〜、そうですか。僕は逆で、なるべく人間性とか知らないほうがいいと思っちゃう。

「その方がフェアだと思います。これは僕の欠点でもあって、どうしても音楽を作ってる人に興味を惹かれちゃう。エンジニアにしてもそう」

――だから、この本があるんですね。僕が人に会わずにスタジオの本を作った、というのと、やっぱり見事に対照的かもしれない。

「例えば、海外の音楽家で僕がポール・マッカートニーを、なぜ、こんなに好きかというと、屈指のメロディーメイカーだから、というよりは、ポールがチャーミングな人だから。バート・バカラックにしてもそう。作品も素晴らしいけれど、作っている本人のキャラクターが気になる人。そこは細野さんは魅力満載で、所作一つ取ってもおもしろいんですよ。煙草の吸い方、歩き方、くしゃみの仕方。おもしろいな〜と思うんですよ」

――なるほど〜。

「ちょっと違う話になっちゃうけれど。最近、僕は落語好きで、林家木久扇さんをよく観に行くんですよ。でも木久扇さんはもう本来の落語をしない。1時間、彦六師匠の話しかしないんですよ。いまの人はもう彦六師匠なんて知らないじゃないですか。でも、いかに彦六師匠がおもしろかったか、という話だけして、それが木久扇さん自身の一級の芸になっている。それを観てて、〈ああ、僕もこれなんだな〉とすごく腑に落ちたんです」