殺気とユーモアがはじけ飛ぶ

 舞踊と武術とは、切っても切れない仲である。これはアジア、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ……と、地球上のすべてで言えることだ。例えば、日本には、立回り、剣舞(けんばい)などという言葉があるが、インドのカターカリにも、中国の京劇にも類似したものがあり、バリ島では女性舞踊のレゴンと並んで男性舞踊を代表するバリスに至っては兵士の踊りそのものである。

 『sutra(スートラ)』は武術でもあり舞踊でもある。しかし注目点がひとつ。ほとんどの芸能や儀礼が武術を「舞踊化」しているのに対して、本作では拳法を「舞踊化」していないのだ。少林拳の高度な身体技法が、最初から最後までそのまま活かされている。武術の模範演技でもないものが、どうして先鋭的な舞台作品として、各地で賞賛の嵐を巻き起こしたのか。

 何よりもまず、本作全体を輝かせているのは、シディ・ラルビ・シェルカウイの構成力である。彼は、ピナ・バウシュアラン・プラテルイリ・キリアンウィリアム・フォーサイス以降の舞踊界で最も期待される存在だ。少なくはない来日作品のなかでも、『ゼロ度 zero derees』『Babel (words)』『アポクリフ』などは傑出した問題作であった。グローバル化した世界を、多様な視点であぶり出すその手法は他者の追随を許さない。そこではつねに音楽と身体技法と美術が高いレベルで統合され、エンターテインメント性を維持しながらも、芸術的な香気を放つ舞台はシェルカウイならではのものである。

 本作では、過去のシェルカウイ作品でも重要な役割を果たしていた現代美術家アントニー・ゴームリーの等身大より大きめの木箱、それに舞台の背後で演奏されるライヴの演奏が、演者たちの緊迫感に満ちた動きと一体化している。つまり舞台上のすべての要素が見事なまでにひとつに昇華され、観客はそのトータルなパフォーマンスの密度を味わうのである。

 実のところ、これは舞踊でも演劇でもなく「パフォーマンス」としか呼びようがない。時に積み木細工のように時に文様のように、木箱が多様なパターンをつくる。そして木箱との連携で展開する限りなく難度の高い技の数々。わたしは南インドのケーララ州で伝統の武術カラリーパヤット見て、その高度な身体技に驚嘆したことがある。相手を殺傷するか、自分が殺傷されるのかという武術の原点を見るような息遣い。芸能化される以前の武術とはそんなものだ。『sutra(スートラ)』の少林拳にもそれが溢れている。その殺気を、ユーモアと美学まで加味して、こんな舞台作品にしてしまうシェルカウイは、やはりただものではない。


LIVE INFORMATION

〈sutra(スートラ)〉 初来日公演
○10/1(土)14:00&19:00 10/2(日)13:00
会場: Bunkamura オーチャードホール
出演: シディ・ラルビ・シェルカウイ、少林寺武僧
演出・振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ
舞台美術: アントニー・ゴームリー
音楽:サイモン・ブルゾスカ
製作:サドラーズ・ウェルズ・ロンドン