勅使川原三郎と佐東利穗子の舞をともなった伶楽舎の演奏に注目

まぼろしの櫓の音がくる紅葉谷
秋蚊鳴く夢を引用する吾れに
雅歌やさし落葉の下を川流れ

 齋藤慎爾の句集『秋庭歌』から3つほど。「武満徹氏の雅楽『秋庭歌』(七三年)が念頭にあった」と作者は「あとがき」で記す。そして「あとがき」には元号・昭和が終わり平成に変わった年の夏の日付がある。

 武満徹の雅楽は、はじめ、こじんまりとしたものだった。「1973年」の段階である。それがいつしか————気のつかないあいだに————、6つの曲へと大きく成長した。中心となる〈秋庭歌〉の前後にべつの曲がつけ加えられただけではない。空間や楽器の拡大もあった。いま、この曲を聴きはじめると、ひとつ音があり、べつのところでエコーがなる、その水滴のような、鹿おどしのようなひびきがつよく印象に残る。そこも成長したなかの一部、冒頭の〈参音声〉だ。

 俳人は作品が大きく育ってからもきっとレコードで武満徹の雅楽を聴いてきたにちがいない。だが、句集を編むにあたっては、初演にふれたおもいをこそ抱いていたのではなかったか。

 作曲家は《秋庭歌》だけでは「まだ(足りない)」と、あるいは、「もっと(語るものが)」と、おもったのだったか。それとも、もともと大きな構想を抱いていたのを、とりあえず試みとして提示してみたのだったろうか。いずれにしても、いま、わたしたちはひとつだけの独立した庭でなく、いくつもの庭からなる《秋庭歌一具》にふれる。

勅使川原三郎(C)Norifumi Inagaki
 

 すでにintoxicateでも何度も異なったかたちで武満徹没後20年とくりかえされている。その一環としての《秋庭歌一具》。演奏は伶楽舎勅使川原三郎佐東利穗子の舞をともなっていることもクローズアップすべきことだろう。勅使川原三郎は10月に山下洋輔と東京芸術劇場で共演があることを想いおこしておけば、ひびき、空間、時間と、このコレオグラファー/ダンサーに注目しているだけでも、大きなコントラストをみることができるはずだ。

 勅使川原三郎は、かならずしも「振付」の語を好まない。動く「型」を決めるのではなく、そのときどきの空気、そのながれを体感してこそ「うごき」が生まれると考える。そして、ゆっくりうごくことでかかってくる重力、からだの細かいところがべつべつに感じられるもの、をこそ大切にする。だとすると、《秋庭歌一具》の音・音楽のありようと勅使川原三郎と佐東利穗子がどう反応しあうのか、気にならずにはいない。

芝祐靖(C)Norihiko Izumiya
 

 《秋庭歌一具》とあわせて演奏されるのは、芝祐靖復曲・構成による《露台乱舞》。平安後期から中世に宮中でおこなわれていた歌舞の宴の再現という。作品はただあるだけでは何にもならない。それを演奏することでこそ、生きるし、古典にもなってゆく。伶楽舎はそうした団体として、ある。

 折しも、芝祐靖が伶楽舎を、勅使川原三郎がKARASをそれぞれ創立してからともに30年。そのたびごとに「たちあげる」ことでこそ可能な音楽でありダンスを、こうして「再現・再生」そして「持続・存続」させる二つのカンパニーを、言祝ぐ機会として、この日を。

 


LIVE INFORMATION

伶楽舎雅楽演奏会 武満徹「秋庭歌一具」
○11月30日(水)19:00開演
会場:東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
プログラム:芝 祐靖 復曲・構成 「露台乱舞」/武満 徹 作曲 「秋庭歌一具」
音楽監督:伶楽舎、芝祐靖
客演:勅使河原三郎(秋庭歌一具、舞・振付・照明)、佐東利穂子(秋庭歌一具、舞)、山口恭範(秋庭歌一具、打物)