成功をバックアップした面々
〈Tender Loving Care〉にメンバー3人の名前を引っ掛けたTLC。その始まりは、90年のアトランタにて、イアン・バークというプロデューサーが、Bガール・ファッションによる〈女性版ベル・ビヴ・デヴォー〉の結成を企画したことだとされる。ベル・ビヴ・デヴォー(BBD)といえば、ラッパーも擁してアイドル性とストリート性を兼ね備えた当時の人気トリオであった(ちなみに彼らも16年ぶりの新作を今年リリースした)。バークの抱えるクリスタル・ジョーンズを中心に、アイオワ出身のティオンヌ・ワトキンス(T・ボズ:70年生まれ)、ラッパーでフィリー出身のリサ・ロペス(レフト・アイ:71年生まれ)が集まり、グループは当初セカンド・ネイチャーの名前で始動。そこから3人の頭文字を取ってTLCが誕生したのだ。最初期にはT・ボズの友人であるリコ・ウェイド(オーガナイズド・ノイズ)やジャーメイン・デュプリらとデモ制作を行っていたそうだが、友人を介してペブルズと出会ったことでグループの運命は回りはじめた。
ペブルズは“Girlfriend”(88年)のNo.1ヒットを持つR&Bシンガーで、一時はLA・リードの妻でもあった地元の実力者。彼女はTLCに興味を示すも実力の劣るクリスタルの解雇を条件としてマネージメント契約を提示し、結果的にT・ボズとレフト・アイは契約を選んだ。2人は、LA・リードとベイビーフェイスが興したレーベル=ラフェイスが送り出したダミアン・デイムのアルバムにコーラスで参加するのだが、そこで出会ったのが彼らのバック・ダンサーを務めていたアトランタ生まれのロゾンダ・トーマス(71年生まれ)だ。ペブルスに選ばれたロゾンダはチリのニックネームと共にTLCに加入。ペブルズ経由でラフェイスと契約した3人は、91年11月に威勢のいい“Ain’t 2 Proud 2 Beg”でドーンとデビューを果たす。
デビュー時のブレーンは、後にチリとの間に一児を授かるダラス・オースティン。彼やジャーメイン・デュプリ、オーガナイズド・ノイズといった、その後の数年でアーバン・ミュージックをポピュラー化していく(当時の)新進気鋭プロデューサーたちが身近にいたのは幸運だった。92年の初作『Ooooooohhh... On The TLC Tips』ではレフト・アイの鋭いラップをキーにした元気で楽しいニュー・ジャック・スウィング的なダンス・トラックがキー。ちょうどその頃からR&B/ヒップホップはBPMを落とすのがトレンドとなり、ニュー・ジャック的な作法は一気に過去の音となるのだが、ベイビーフェイス節の普遍的でメロウな“Baby-Baby-Baby”がデビュー曲以上のヒット(R&Bチャート1位)となって、時代のムードと上手く繋がったのも幸運だった。そこで絶大な魅力を発揮したT・ボズのクールな低音ヴォーカルが、以降もTLC曲の要となっていく。
そして迎えたのが、94年の2作目『CrazySexyCool』だ。印象的なホーンがループするダラス渾身の“Creep”が初の全米1位を獲得し、メッセージを込めたオーガナイズド・ノイズ製の“Waterfalls”もそれに続いた。他にもベイビーフェイスによる珠玉の“Diggin’ On You”など名曲を取り揃えたこの〈赤いアルバム〉の印象が、後世からイメージする際の〈90年代R&Bっぽさ〉において大きな部分を占めているのは間違いないだろう。ただ、作風も手伝ってレフト・アイのラップ・パートは激減。彼女は婚約者の邸宅に放火した容疑で逮捕されるなど、〈Crazy〉を地で行くお騒がせぶりでも知られていくようになった。