一人のシンガーとして活躍する一方、プロデューサー/ソングライターとして規格外の成功を収めてきたベイビーフェイス。裏方としての手腕を発揮した新作『Girls Night Out』を機に、その初期の名仕事を改めて振り返ろう!

 ベイビーフェイスが新作『Girls Night Out』を発表した。〈女子会〉を謳ったアルバムは本人名義の作品でありながら、フェイスがプレゼンター的な立場で現行の女性R&Bシンガー/ラッパーをお披露目するショウケース的な内容。R&B界の重鎮らしく若手の紹介役に回ったフェイスだが、かつて映画「ため息つかせて」(95年)のサントラでフェイスの曲を女性アーティストばかりが歌った時点で、彼はR&B界のトップを走るスーパー・プロデューサー/ソングライターであった。

BABYFACE 『Girls Night Out』 Capitol/ユニバーサル(2022)

 

甘くテンダーな普遍性

 何しろキャリア45年超。自身が属したバンドやソロでの作品に加え、他者に提供した楽曲も膨大で、ホイットニー・ヒューストン、マドンナ、マライア・キャリーなどもフェイス作の曲を歌ってヒットを飛ばした。『Girls Night Out』にてエラ・メイとの曲で換骨奪胎したテヴィン・キャンベル“Can We Talk”(93年)もフェイス作のクラシックだ。96年にワイノナ・ジャッドのカントリー・ソング“Change The World”をエリック・クラプトンが歌ってヒットしたのも、フェイスの類稀なプロデュース・センスあってのことだろう。この10年近くの間にも、ビヨンセ、アリアナ・グランデ、ブルーノ・マーズ、トリー・ケリー、ラッキー・デイなどの楽曲に関与。R&Bに軸足を置きながらポップ・フィールドにも食い込んで万人の心を掴む普遍性はマイケル・ボルトン“Why Me”(97年)でペンを交えたラモント・ドジャー、美しいメロディーやロマンティックな歌詞でリスナーを魅了する術はセリーヌ・ディオンによるアトランタ五輪の公式テーマ曲“The Power Of The Dream”(96年)を共同で制作したデヴィッド・フォスターにも通じている。ジャンルレスでタイムレス。後に楽曲提供をするマイケル・ジャクソンとは、同じ58年にインディアナ州で生まれ、兄弟たちと音楽活動を始めたという共通点もあるフェイス。まさにマイケルの背中を追いかけて成功を掴んだのが彼だった。

 シルク・ソニックのアルバムでもペンと声を交えたフェイスだが、彼らのメンターであるブーツィー・コリンズに「お前、童顔だな」と言われ、ソロ活動を始める際にベイビーフェイスと名乗ったというエピソードはファンの間ではよく知られている。そして、童顔だけでなく、彼が作るメロディーやヴォーカルも甘くテンダーで少年っぽさを残す。

 フェイスが本格的にプロ活動を始めたのは、後に楽曲制作の右腕となるダリル・シモンズも在籍したマンチャイルドという地元のバンドだ。彼らは70年代後半に2枚のアルバムを出すが、フェイスが歌うスロウ・バラード“One Tender Moment”(78年)を聴くとセンチメンタルなメロディーの片鱗が見てとれる。続いてファンク・バンドのレッド・ホットに関与し、その直後にフェイスがペンを交えたミッドナイト・スターの“Slow Jam”(83年)では、あのロマンシーな作風がほぼ完成していた。その後、音楽/ビジネス・パートナーとなるアントニオ“LA”リードらと活動したディールが、“Sweet November”(85年)に代表されるバラードを主力としていったのも、フェイスの加入と彼のペンの力によるところが大きい。