〈人に歴史あり〉とはよく言ったものだが、ここまで刺激的なストーリーも珍しい。アーロン・チューライは82年生まれでパプアニューギニア出身。中国人とのクォーターである母と、ユダヤ系オーストラリア人の父を持ち、黒人の国でアルビノとして育った。やがて数奇な縁からジャズ・ピアノにのめり込み、メルボルン~NYで華々しいキャリアを積んだのち、2009年からは東京・江古田を拠点としている。さらに、ヒップホップのトラックメイカーとしてOlive Oilや5lack、KOJOEなど国内外のアーティストに携わり、オーケストラに楽曲提供を行う傍ら、ノイズ/即興音楽のシーンにも出没。そのマルチな作家性は、カリーム・リギンスやジム・オルークとも重なって映る。

この度リリースされた『VADA TAUDIA』は、アーロンが日本で発表する初のリーダー作で、長年の盟友であるドラムスの石若駿とサックスの吉本章紘、2人の若きオーストラリア人奏者という鉄壁のクィンテットで制作された。ジャズの過去と現在が溶け合ったニューオーリンズ調のアンサンブルは、リリカルな旋律と大胆なコンポーズに支えられており、妥協や予定調和を許さない。そして、独創的なサウンドの輪郭をかたどっているのは、アーロンの人生そのものだ。そのユニークすぎる歩みを、流暢な日本語で語ってもらった。

AARON CHOULAI QUINTET VADA TAUDIA APOLLO SOUNDS(2017)

自分が何者かと尋ねられたら、〈音楽を作る人〉って答える

――日本に来たのは、どういう事情があったんですか?

「のちに結婚する彼女が、日本人のハーフで琴のプロだったんですよ。それで、日本で勉強したいと言われて。じゃあ僕も行こうかなって」

――何かしら予備知識はありました?

「全然ないですね。2009年の〈東京JAZZ〉で(出演者として)初めて来日したんですけど、そのときは日本について何も知らなかった。どれくらい住むのかも決めてなかったけど、とりあえず学校に入ろうと。当時は作曲への興味が大きくなっていたし、黛敏郎、武満徹、高橋悠治といった日本の作曲家をよく聴いていたので、東京藝術大学に入ることにして。それで、卒業までの4年間を過ごすうちに、もっと東京でミュージシャンとして生活したくなってきたんです」

――オーストラリアやUSでも実績を積んできたわけですよね。日本への移住は、だいぶ思い切った決断だと思うのですが。

「僕は適当な人間なので、なんで来たかって言われても……来ちゃったんだよね(笑)。それまではずっとジャズをやってきたし、とにかくNYに行くのが目標だった。でも、気が付くとNYでの生活に疲れてきて。若かったから故郷にも戻りたくなかったし、次のステージを探していたんですよ。日本に行けば新しい経験もできると思って」

――東京藝大では音楽環境創造科で学んだそうですけど、どういったことを勉強したのでしょう。

「そこは社会文化的なことを勉強するところで、割と好きなことを扱えるので、さっき挙げたような作曲家について研究していました。あの時代の作曲家は、みんな日本っぽい。その理由をずっと考えていましたね」

――答えは見つかりました?

「うーん、やっぱり〈間〉なのかな。スペースの使い方が特徴的だと思う。あとはエクスペリメンタルというか、新しいことを真摯に探していた感じがします」

――というか、現代音楽にも興味があるんですね。

「僕はジャンルとか関係ないので。それこそ自分が何者かと尋ねられたら、〈音楽を作る人〉って答えると思う」

――石若駿くんと知り合ったのも、藝大に通っていた頃ですか?

「そうですね。最初に会ったとき、駿はまだ15歳の高校生でした。藝大はクラシックをやってる人ばかりで、ジャズの人は珍しいんですよ。たまたまライヴを同じところでやることになり、学校で見かけてたから〈イェーイ〉と意気投合して(笑)。駿は17歳からヨシ(吉本章紘)のバンドで演奏しているし、僕もオーストラリアの友達にヨシを紹介してもらって。そこから一緒にやるようになりました」

※石若は2008年に藝大の付属高校に入学し、2015年に同大学を卒業

アーロンと石若が参加した吉本章紘クァルテットの2012年のパフォーマンス映像
 

――今回のアルバムに参加している2人は、その頃に知り合ったんですね。彼らを通じて、日本のジャズ奏者との交流も広がっていった?

「まあ、そうなのかな。NYやメルボルンにいたときもそうですけど、僕はいろんな人とライヴをしたいわけじゃないから。駿とヨシに、あとはドラムの大村亘、ベースの金澤英明、サックスの西口明宏……。ずっと同じ人とやっていますね。ジャズの友達は多いけど、日本のジャズはそんなに知らない(笑)」

――ジム・オルークもそういうところがありますよね、同じミュージシャンと音楽性を切磋琢磨するタイプというか。

「確かに、スタンスが似ているかもしれない。ジムさんは〈音楽を作る人〉だし。スタジオで音楽を作っていると、一人の時間が多くなってくるから、人と会いたくなくなる(笑)。今日(取材日)も1週間ぶりに外に出ました」

――ハハハ(笑)。ライヴより作曲のほうが好き?

「でもライヴをやりたい時期もあって。僕は昔のジャズも好きで、バンジョーを弾きたくなったら2か月くらい連続してライヴを入れたりもする。それが落ち着くと、またヒップホップが作りたくなって、今度はそっちに集中して……みたいな感じ」

アーロンがバンジョーを弾いているライヴ映像。トロンボーンのジェイムズ・マコーレーは新作にも参加

 

右手左手関係なく指10本で弾いている感じ。でも、それがピアノだと思う

――ジャズとヒップホップ、それぞれのルーツについて訊かせてください。まず、ピアノを弾き始めたのはいつ頃ですか?

「14歳のときに、オーストラリアに引っ越すことになって。僕は黒人と白人のハーフで、家ではパプア語で話していたから、英語がそんなに上手くなかった。それで引っ越しする前、お爺ちゃんに言われたんです。〈お前は向こうに行ったら白人に見えるから、みんなオーストラリア人だと勘違いする。でも育ってきた文化も違うし、言葉も話せないから、友達は絶対に作れない。だから楽器を始めた方がいい〉って」

――すごい話ですね!

「お父さんのピアノが家にあったから、適当に弾きはじめて。最初はクラシックから入りました。それからオーストラリアで音楽の高校に入って」

――ピアニストだと誰が好きですか?

「一番好きなのはデューク・エリントンですね。あとは、レニー・トリスターノがとにかく好き。テディ・ウィルソンのような1920~30年代のジャズにもハマっています。もちろん、ビル・エヴァンスとかモダンな人も聴きますけど、家で聴くのは古いのが多い。歳を取れば取るほど、若いときに聴いていた音楽にまた興味が湧いてきて」

――他にはどのあたりを?

「ピアノを始めたときは、ニューオーリンズ系のピアニストをよく聴いていました。プロフェッサー・ロングヘアやジェイムズ・ブッカーみたいな」

デューク・エリントン&ヒズ・オーケストラの34年の楽曲“Solitude”
 
ミーターズと演奏したプロフェッサー・ロングヘアの64年のシングル“Big Chief”
 

――今回のアルバムを聴くと、どれも頷ける名前ばかりですね。

「そうですか? 若い頃はジャズってライヴの音楽だと思っていたから、レコードは買わずにライヴばかり追いかけていましたね。オーストラリアにいた頃だと、アンドレア・ケラーやティム・スティーヴンスは何度も観ました。あと、ポール・グラボウスキーはヤバイ。今年の〈東京JAZZ〉にも出演していて、来日中に彼のアルバムをプロデュースしたんですよ」

ポール・グラボウスキー・セクステットの2014年作『The Bitter Suite』収録曲“Paradise”
 

――アーロンさんのプレイは、繊細なタッチとフリーキーな過激さを併せ持っているように映りますが、ピアニストとしてどんなことを意識しています?

「それは演奏するシチュエーションにもよるかな。僕にもピアニストとして長所と短所があって、例えば速く弾くことはできない。でも弾く音が綺麗だと知っているから、その音色を前に出してゆったりさせることに集中しています」

――スキルよりテクスチャーを大事にしている?

「そうそう。ピアノを上手く弾きたいとも思わないし、そもそも自分はピアニストではないので(笑)。僕は〈音楽を作る人〉だし、作曲家は音色が好きだから」

――ヒップホップからの影響が、ピアノの演奏に出てくることもありますか?

「あー、あるかもしれない。J・ディラのビートをよく聴くと、サンプルの音がスネアの後ろから出てきますよね。そういうタイム感とか。最近、(ピアノを弾く)左手を遅くして右手を速くしたり、その逆をやったりもしていて。ヒップホップっぽいコード進行を使うこともあれば、自分のピアノを(トラック用に)サンプリングすることもあるし」

――左右の手が非対称に動き回るプレイは、アーロンさんの十八番って感じがしますね。今回のアルバムの聴きどころにもなっている。

「僕は右手と左手(の違い)はあまり関係ないので。指10本で弾いている感じ。でも、それがピアノだと思いますね」

アーロンと石若の2013年のライヴ映像