THE SHOW MUST GO ON
クイーンが作ってきた栄光の軌跡

 伝説のロック・バンドとは彼らのことである。ポップスターと呼ばれるに相応しいオーラを纏った彼らのロックスターとしての輝きは説明するまでもなく、セールス的な目線から見ても比類なきヒットメイカーなのは疑いない。そんなバンドを〈史上最高のエンターテイナー〉と賞賛しているのはレディ・ガガだが、彼女やケイティ・ペリーら2000年代以降のポップスターたちが惜しみなく賛辞を贈る存在、それがクイーンだ。そのように大仰な形容を書き連ねてみてもまるで大袈裟に思えないのは、彼らの生み出した音楽が備えているスケールの大きさゆえだろう。広く世界中のオーディエンスに向けて、ビッグな言葉で絶賛されるのがよく似合うバンド、それがクイーンなのである。

 もちろん91年にフレディ・マーキュリーがこの世を去ってから、完全体なバンドとしての活動はない。それでも彼らの音楽がスタンダードの域を越えて親しまれ続けているのは、映画やドラマ、CM、カヴァー、サンプリングなどを通じて彼らの楽曲が何度となく時代を魅了しているからであり、彼らの楽曲にそれだけの耐久性が備わっているからだ。それゆえにパロディーやオマージュもあっさり受容できる懐の深さはとんでもない。

 例えば90年代にコメディー映画「ウェインズ・ワールド」(92年)で“Bohemian Rhapsody”の馬鹿馬鹿しい楽しさを知った人は多いだろうし、2000年代以降だとミュージカル「ウィー・ウィル・ロック・ユー」、あるいは「The X Factor」などのオーディション番組、さらには「glee/グリー」の影響も絶大だろう。日本ではTVドラマ「プライド」(2004年)を通じてリヴァイヴァルが起こり、ベスト盤『Jewels』がミリオン・ヒットしたことも思い出される。ビヨンセとブリトニー・スピアーズ、ピンクがCMで歌う“We Will Rock You”にせよ、スポーツ番組でたびたび使われる“We Are The Champions”にせよ、「ハッピー フィート」(2006年)シリーズでのブリタニー・マーフィらの歌唱にせよ、近年だと「ベイビー・ドライバー」(2017年)で使用されていた“Brighton Rock”にせよ……まあ、そうやって細かく挙げる必要もなく、世界のどこかでは常にクイーンの楽曲が流れていて、世代を問わず否応なく誰かが耳にしているのだろう(海外のリアクション動画などを観ていても、キッズたちの多くがクイーンの曲を知っていることに驚かされる)。そんなわけで「ボヘミアン・ラプソディ」がここで公開されるのは多くの人にとって良い機会となるはずだ。この映画は誰もが(声は)知っているフレディ・マーキュリーとクイーンの、知られざる部分も交えた伝説を実体化して見せてくれる物語である。そんな性質の映画だけに、本編を観ていただければバンドのドラマティックな歴史をここに記しておく必要もなくなるのだが、とりあえず簡単にまとめておこう。

 公式には71年結成とされるクイーンだが、その前史はもう数年ほど遡ることができる。ブライアン・メイ(ギター)とロジャー・テイラー(ドラムス)らがスマイルというバンドを結成したのが68年のこと。カレッジに進学したブライアンと友人のティム・スタッフェル(ヴォーカル/ベース)がジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを意識してバンド結成を思い付き、そのメンバー募集を見てロジャーが加わったのだ。ギグを行いながらマーキュリーとメジャー契約したスマイルだったが、69年に発表した唯一のシングル“Earth”は鳴かず飛ばず。70年になるとティムは別のバンドを選んで脱退してしまう。そこで登場したのが、サワー・ミルク・シーというバンドで歌っていた知人のファルーク・バルサラだった。彼を加えたバンドは名前をクイーンに改め、ファルークもフレディ・マーキュリーと名乗るようになった。後にティムは〈自分の行いでもっとも良かったのは、スマイルを脱退したこと。そうしなければクイーンはなかったんだから〉と語ってもいる。

 ライヴ活動を行いながらもベーシストが定着しなかったクイーンではあったが、71年2月にはジョン・ディーコンが加入。バンド公式の結成タイミングはこの4人が揃った時だ。まだ大学生だった彼らはライヴとリハーサルを繰り返し、72年6月からロンドンのトライデント・スタジオでアルバムのレコーディングを開始した。翌73年にはトライデントを経由してEMIとレコーディング契約を結び、7月にファースト・アルバム『Queen』をリリース。当初は本国プレスから良い評価は得られなかったものの、74年2月にBBCの「Top Of The Pops」に出演して“Seven Seas Of Rhye”を披露したあたりから状況は好転、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルの亜流という評価を超えてバンドのオリジナリティーが認められるようになっていく。同曲はチャートでTOP10入りし、2枚目のアルバム『Queen II』も全英5位のヒット。モット・ザ・フープルの前座として初めてアメリカ・ツアーを経験し、同年のうちにサード・アルバム『Sheer Heart Attack』もリリース。そこからは“Killer Queen”が大ヒットし、いわゆるハード・ロック・バンドとは異なるクイーンならではの個性を完全に認知させることに成功した。

 以降は莫大なヒット・ソングとクラシック・アルバムの連なる破竹の成功劇だ。クイーンがリリースしてきたアルバムのザックリしたあらましについてはディスクガイドをご覧いただくとして、そのスタジオ・ワークにかけるチャレンジングな情熱が特殊な名曲・名盤を生み出していく様子は映画「ボヘミアン・ラプソディ」でも生々しく描かれている。75年には5分55秒という異例の長さのシングル“Bohemian Rhapsody”を発表。この演奏やコーラスの実演が容易ではないために作られたプロモーション映像が、今日的なMVの先駆けになったことを知る人も多いだろう。同曲は現在では英国レコード産業協会(BPI)によって〈史上最高のシングル〉に選定されている。

 それぞれまったく異なるタイプの曲を書くフレディとブライアンを擁しつつ、ジョンとロジャーも活動のなかでソングライターとして成長。その結果、時には迷走とも取れるほどメンバー個々人の音楽的な嗜好とアイデアが追求され、印税の格差や音楽性の違いを理由に不仲に陥った時期もあった。それでもクイーンの4人を固く結び付けていたのは自分たちの作り出す唯一無二な音楽への自信だっただろう。グラマラスでエレガントな70年代からストロングでフィジカルな80年代という時代の変化に自然に呼応し、ロックの美学をそのままポップの美意識へと転換できたのは、同世代のアーティストと比べてみてもなかなか稀有なケースだったのではないだろうか? 85年1月にはブラジルのリオデジャネイロで初めて開催された世界最大のフェス〈ロック・イン・リオ〉に出演し、7月には世界規模の大がかりなチャリティー・コンサート〈ライヴ・エイド〉にも登場。会場の人気をさらう見事なパフォーマンスを披露して、空前の成果を上げた。

CHRIS HOPPER

 そうした紆余曲折を経験する過程でメンバー同士の人間関係も修復。不動の国民的バンドとして90年代に突入していくのだが……クイーン結成20周年にあたる91年の11月24日、フレディはHIVによる免疫不全を原因とする肺炎でこの世を去る。翌92年にウェンブリー・スタジアムで7万人を集めて(+10億人以上が中継を視聴するなかで)開催された〈フレディ・マーキュリー追悼コンサート〉はジョージ・マイケルやアクセル・ローズらの歴史的なパフォーマンスを生み、その収益はエイズ撲滅をめざして活動する慈善団体〈マーキュリー・フェニックス・トラスト〉の礎となった。

 そうした永遠の功績を残しつつ、クイーン自体も単なる伝説のバンドになることを選んだわけではない。フレディ最後の録音を含む『Made In Heaven』(95年)を発表後、クイーンはベスト盤のための新曲として“No-One But You(Only The Good Die Young)”(97年)を3人で録音。ジョンはこれを最後に引退しているが、ブライアンとロジャーは個々に表舞台で活動を継続し、2005年から数年間はクイーン+ポール・ロジャースとして、2012年から現在に至るまではクイーン+アダム・ランバートとしてツアーを行ってもいる。今回の「ボヘミアン・ラプソディ」公開を機に彼らの物語に触れ、その音楽に愛を深めるリスナーがさらに増えることを願ってやまない。 *轟

クイーンのベスト盤。

 

クイーンのライヴ盤を一部紹介。

 

入手が容易な関連作。