本を奏でる――響きあう解釈を楽しむ
〈本を弾く〉と題された本を読む、というか聞く。著者は音楽についての本をたくさん書いてきた小沼純一。ジョン・ケージの著作や高橋悠治の著作からテキストを抜粋し著者ごとにそれぞれアンソロジー本をリリース、まるでDJのような編集をする人でもある。この本は、雑誌『UP』に連載された書評にいくつか書き下ろしを加えてまとめられたもの、である。プレリュード(序)に記されているとおり本をコンポジション(=楽曲)に見立てた著者の解釈による、時に即興も交えた演奏(=書評)が22冊分つまりは22曲収められたコンピレーション、ということ。さらに〈ことば〉、〈場所〉、〈からだ〉の三つの章立てで構成されているから都合3枚組ということなのか。
〈本を弾く〉、それは要するにどういうことなのか? このタイトルの着想は、二曲目の文化人類学者、西江雅之の「アフリカのことば――アフリカ/言語ノート集成」の書評中に見出される。翻訳は「訳者による制約の中での『演奏』であるとも言えよう。」(西江)というフレーズやさらに、五曲目の仏文学者、豊崎光一の「余白とその余白 または 幹のない接木」に現れるフレーズ「あらゆる翻訳が一個の引用であるばかりではありません。およそあらゆる言語活動は一個の翻訳ないし一個の引用と見做すこともできます。」(豊崎)などに、このタイトルに込められた意味を読み取ることが出来るだろう。
著者はそれぞれの本、楽曲のケーデンスの違いを聴き分け、弾き分けていく。ロジックな演奏で耳が冴えてくる勅使河原三郎、井筒俊彦、中西夏之の楽曲(=著作)。一方で叙情的な演奏が際立つのが染色家、下村ふくみの「一色一生」である。「志村ふくみが手で植物にふれ、糸にふれ、色をつけ、追ってゆく、そこから出てくることばが、また、ことばとしては知っていても生活に馴染んだものとしては実感のない、とてもたよりない、でも漢字のかたちや音のひびきの美しさとともに感じられる、そうしたものを自分のものにしていないよわみ、欠落、それからの憧れを、おぼえる。文章の背後にある生活や手、技術、伝統、植物、世界、に。」と、繊細な音が綴られる。
そして様々な楽曲の演奏中に随所で引用されるのが、ジョン・ケージの沈黙の作品「4分33秒」である。哲学者、井筒俊彦の「沈黙はものを分節しないからである」を受けて、あるいは一曲目の哲学者、鷲田清一の「聴くことの力」の中で、そして終曲となった劇作家、太田省吾の「動詞の陰翳」における老婆の沈黙の台詞に埋められて、変奏される。
著者は我が国のことを常に〈列島〉と記す。我々の素性・組成が常に複数であり、海で隔った島々における交通、交換、移動こそが我々の〈からだ〉、〈場所〉、〈ことば〉という意味なのだろう。