てのひらにのるちいさな詩集、ひらがなにひめられたことばのあわい。

小沼純一 『sotto』 七月堂(2020)

 その言の葉はするするとよめそうでいて、そうではなかったりする。目で追ううちに、音読したくなり、声に出してよむ。ことばの区切りによって、二重の意味を持つことに気がつく。区切って、つっかえて、またよみ直して、どっちの意味をとるか迷い、逡巡しながらよむ。どもっているのか。感嘆詞なのか。いや、もしや、古語なのではないか。知ってるような知らないような。呪術的なにおいさえする。ひっぱられないようによみすすむ。むむ、艶歌なのではないかと勘ぐる。狂気も感じる。惑わされないようにたんたんとよみすすむ。

 ひらがな詩というと、谷川俊太郎・詩集「ことばあそびうた」、「わらべうた」、「みみをすます」「バウムクーヘン」などが浮かぶ。やんちゃなことばもびろうな話もひらがななら無邪気でゆるせてしまう。ひらがなのもつ親密感に心をゆるしてしまう。ふしぎふしぎ。

 この詩集「sotto」は、ひらがな詩ではあるけれど、邪気というのか妖気というのか、曖昧模糊としたものが漂っている。英語で〈隠語〉を〈Jargon〉(語源は〈鳥のおしゃべり〉)というらしいが、密室の巣に閉じ込められてなく鳥の葛藤を感じる。最後の頁に記された〈sotto voce〉の文字に気づく。辞書をひいて見たら、イタリア語の音楽用語で〈小声でささやくように〉という意味があることを知る。なるほど。ならば、思い立って、裏扉から、左から右に音読を試みる。かそけき声で、よみすすむ。つながらないようでつながることばのあわい。浮き彫りになることば、すがた、かたち。「閑吟集」に似たひびきもあり。てのひらにのるちっちゃな詩集は異次元空間につながるのか、表よみ裏よみくりかえし、言の葉のあわいを行きつ戻りつするうちに、密室に風が通る感あり。

 音読実験は、高橋悠治“散らし書き”(CD『めぐる季節と散らし書き 子供の音楽』)を聴きながら試行。そのまま、ジョン・ケージの曲にも溶け合った。

 詩集「sotto」、多言語に翻訳されるとしたら、どんなふうに表音化され表象化されるのか。点字ならば?