地球のささやき、人のさえずりの楽しみ。

 容赦のない自然の力に人は今も翻弄され続ける。地震や噴火、洪水などの自然災害の報告は世界に溢れている。計り知れない地球の営みにこれからも我々は戦々恐々としてなながら科学者の知見を頼りに人の営みをこれからも続けていくのだろう。

 自然は、どこか人の意識下に眠る無意識のようだ。自然現象の可視化(数値化、言語化など)は科学の本質だが、地震などの災害予知を不可能の科学と評する科学者は、どこか無意識の力に翻弄され悩む神経症の患者のようでもある。我々の知っている自然は、不穏な力をその穏やかな表情に潜ませる。科学的方法による自然の構造化は、永遠に自然を我々からとうざけてしまう、そんな不安は科学からは決して消えないだろう。

小沼純一 音楽に自然を聴く 平凡社(2016)

 しかし、自然と対峙し理解しようとする科学を横目に、音楽と始めとする芸術は自然とおおらかに付き合う術を人に与えた。たとえば鳥の声を擬態する音楽は、人が自然と戯れる庭のようではないか。そんな音楽という営みの、自然を慈しむ人の知恵の豊かさを垣間見る本が出版された。小沼純一著 『音楽に自然を聴く』は、音を媒介にした人と自然の戯れを紹介する。

 虫や動物、鳥の声は、音楽を育み、自然は道具である楽器を生む。楽器が切り取った自然は、音楽宿し、音楽の体系を律する。世界中でこうした音楽と自然の戯れが過去何世紀にもわたってつづいきた。天文学者ケプラーの説いた天体の調和的な動きを写すハーモニーの理論、ムジカのように音楽は調和と比調和という概念をもたらしたが、自然は人の感覚のなかにとじっていくことにもなった。ある感覚が別の感覚器官のトリガーになる共感覚の介在よって音楽は、風景すらも音楽に取り込む。人は耳を音楽とともにずいぶん進化させてきた。著者は「聞く」と「聴く」を書き分けている。「聞く」という行為の音楽化が「聴く」ということ、つまり見るという行為の芸術化が観る、というように。

 作曲家ジョン・ケージの無音の音楽『4分33秒』は、過度に人間的になりすぎた「聴く」を「聞く」に解放するための扉だったと著者は考えているのだろうか。