ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2016 La nature ナチュール- 自然と音楽
2016年5月3日(火・祝)・4日(水・祝)・5日(木・祝)
会場:東京国際フォーラム、日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)、大手町・丸の内・有楽町エリア
www.lfj.jp
「La nature ナチュール-自然と音楽」をテーマに掲げたラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭(LFJ)2016。GWの有楽町の風物詩となったこの音楽祭で、まさかヴィヴァルディ/マックス・リヒターの《四季》のリコンポーズ(公演番号※:126、215)が日本初演されることになるとは予想もしていなかった。いろいろな意味で、この作品はLFJのあり方を象徴していると思うので、まずは今回のテーマに沿って順番に話を進めていくことにしよう。
自然は、音楽に満ち溢れている。洋の東西を問わず、またジャンルを問わず、自然にインスパイアされて生まれた曲も多い。それを端的に表しているのが“鳥のさえずり”を作曲の素材に用いた音楽だ。
英語で「bird song」、フランス語で「chant d'oiseaux」と表現されるように、“鳥のさえずり”はそれ自体が“歌”である。その意味で、鳥は優れた作曲家(コンポーザー)と言えるだろう。だから、その“歌”に人間が感銘を受け、“歌”を加工して新たな音楽に作り変える再作曲(リコンポーズ)を思い立ったとしても、べつだん不思議なことではない。古くはルネサンス期の聖職者ジャヌカンが、擬態語で“鳥のさえずり”を表現した《うぐいすの歌》(133、231、235、333)。新しいところでは、“鳥のさえずり”のサンプリングを作曲素材に用いたメシアンのピアノ曲集《鳥のカタログ》(156、253、342)やラウタヴァーラの協奏曲《カントゥス・アルクティス(北極圏の歌)》(347)。これら以外にも数多くの作曲家たちが“鳥のさえずり”をリコンポーズし、膨大な数の楽曲を生み出してきた。そういう意味では、もはや“鳥のさえずりの音楽史”と呼べるようなものが確実に存在すると言ってもいいのかもしれない。ちなみに今回のLFJでは、“鳥のさえずり”を声帯模写するジョニー・ラス&ジャン・ブコーが、鳥にちなんだ名曲の演奏と共演するユニークな演奏会(227、331)も開催される。
そんな“鳥のさえずりの音楽史”の中でも特に注目すべき作品は、何と言ってもクラシック史上最大のヒット作となったヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲《四季》(126、215)だろう。作曲当時、ヴァイオリン協奏曲というフォーマットは誕生してからせいぜい1世紀程度しか経っておらず、足取りも覚束ない“雛鳥”のような状態が続いていた。そうした中、ヴィヴァルディは有名な〈春〉の第1楽章で独奏ヴァイオリンに“鳥のさえずり”を演奏させ、ヴァイオリンの魅力と可能性を本格的に引き出すことに成功した。つまりヴィヴァルディは、“鳥のさえずり”のリコンポーズによって、ヴァイオリン協奏曲の歴史を変えた作曲家なのである。
リヒターは《四季》をリコンポーズするにあたり、〈春〉の有名な第1主題を惜しげもなくカットし、“鳥のさえずり”の第2主題をそのまま引用する形で音楽を始めている。この第2主題こそ、《四季》のリコンポーズという大胆な実験をリヒターに踏み切らせた最初のきっかけであり、また最大のポイントであるというのが、リヒター自身の弁である。
ヴィヴァルディが《四季》を作曲した約300年前も、リヒターが《四季》をリコンポーズした21世紀も、“鳥のさえずり”は作曲家たちが常に立ち返るインスピレーションの泉であり続けている。そしてリヒターは、“鳥のさえずり”の第2主題の中に作曲家としてのヴィヴァルディのパイオニア精神を見出し、リコンポーズという形でその精神を継承しようとしているのだ。そうやって、作曲家たちは音楽の歴史を豊かにしてきたのではあるまいか? だからこそ、LFJのように音楽史を縦横無尽に行き交いながら、音楽を演奏し、音楽を聴くことの必要性が生まれてくるのである。リヒターの《四季》のリコンポーズが、いろいろな意味でLFJのあり方を象徴していると最初に書いたのは、そういう意味だ。
もう1曲、ラモー以下4人の作曲家が“鳥のさえずり”をリコンポーズしたバロック曲を、20世紀のレスピーギがリコンポーズした《鳥》(343)。作曲手法は異なるが、リコンポーズを通じて過去の作曲家へのリスペクトを表したという点では、リヒターの方法論を先取りした作品と言えるかもしれない。
※文中の公演番号はwww.lfj.jpに詳細情報あり