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即物的に曲を作る職業作家

1963年、レコード会社グラモフォン(現ユニバーサル ミュージック)の洋楽部に籍を置き、ディレクターとして海外のポップスを担当する中で、浜口庫之助作曲“涙くんさよなら”をタレント、ジョニー・ティロットソンによる歌唱で日本語盤も制作することになり、洋楽部にいながら邦楽制作に携わることで〈作る〉ということの面白さを知るきっかけがあり、同時期に作詞家の橋本淳に誘われ、作曲家すぎやまこういちの勉強会(当時、音楽を志す若者がすぎやま氏の自宅に出入りしていた)に参加するようになり、(曲を作ることに対し)影響を受けるようになったそうです。すぎやま氏は「ピアノを弾ける彼は曲を指で考えるのね。僕のかいたモチーフをバァッと弾き出して、それを二声フーガ、三声フーガとバリバリ弾き出して……凄いのよ。音楽について彼に教えることは何にもないと橋本淳に言ったの」と話されています。

幼少期からピアノを始め、大学時代はジャズにのめり込んでいたというバックグラウンドがあるとはいえ、20代前半で作ることの楽しさを知り、それを仕事にする環境や人との出会いがあり、作曲、編曲の才能を評価されることは遅かれ早かれ必然だったのではないかと思います。

「(自分の)ルーツに歌謡曲、流行歌なんてひとつもなかった。人から頼まれた仕事。自分から(曲は)書かないと思う」。生前、そう話されているのをドキュメンタリー番組で観た時〈あぁ、だからこんなに沢山のヒット曲を生み出すことができたのではないだろうか〉と思いました。職業作家としての良心と気概、ヒットメーカーとして、時代に対する責任と自負を最後まで持ち続けていた人ではないかと思います。

「グラモフォン時代、洋楽部で外国のポップスを担当していた時期にどういうものが世の中に受けるのか、売れたらそれが如実に数字として返ってくるので勘を身につけられたんだと思う」「曲を売る側の意図を理解する力が(自分は)あるのかもしれない」「要求に応えること。歌謡曲(制作)はひとつの会社です。作詞家、作曲家、アレンジャー、プロダクションが組まれチームとなってどう売るのかを考え、皆んなでその山に向かって船に乗る。チームでやる仕事が全て。僕は、作品のクオリティも高く、歌もすごい歌手と一緒にハネるのが理想」「自分の音楽とは絶対に言いません。チームでヒット曲を作るのが執念」という発言からも、〈曲を作る〉ということに対しどこまでも一貫した即物的な視点を感じます。自分の好きなものではなく、ヒット曲を作る。生涯で約2800曲を作ってきた職業作家にしか見ることのできない景色と経験があってこその言葉だと思います。

恒川光昭氏(元・日音代表取締役会長)は筒美氏との印象的な思い出として「ビルボードウィークリーってあったでしょう? ベスト50。それを契約してね、かなりの数のレコードですよ。それを原宿だったかな、買いに行って。筒美さんが毎週全部聴くわけです。(レコードの)針を上下させて次々に聴いていくのよ。それで〈ん?〉と思ったものは止めて、何回もじっくりと聴いていたんですよ」と回想されていました。外国のポップスを聴いて日本のメロディをどう融合させるかを常に考えていたのは自分が(作曲をする過程で)一番面白かったところかなと筒美氏本人も仰っています。

 

歌がダメだったからこそ生み出しえた旋律

歌というものは言葉とメロディを媒介する歌手によって世の中に届けられるものです。その歌い手の歌唱力や表現力、音域などを総合的に理解し、本人さえ気づかない魅力をじゅうにぶんに引き出し、活かすことのできる曲を次々に作ることはそんなに簡単な事ではないと思うのです。太田裕美氏は「(筒美氏は)その人が持っている一番良い所を最大限に引き出してくれる。私の場合、地声と裏声が変わる部分を活かして下さった」と、“木綿のハンカチーフ”(75年)について言及されています。

太田裕美の75年のシングル“木綿のハンカチーフ”

職業作家として多忙を極めた時には多い時で月に45曲も作曲していたそうで、脂の乗った時期などは特に、時代に対する鋭い嗅覚と、先見の明によってどういうメロディを生み出すべきかが常にその手の内にあったのではないかと思えるのは私の考えすぎでしょうか。

ただ、筒美氏本人は全く歌がダメ(上手くない)だったそうです。もし自分が歌えていたら、(作曲する際に)メロディラインは変わっていたと思うと仰っています。(自分が歌えたとしたら)〈想いを込める〉ということが邪魔をして即物的なメロディの塊を書けなくなるということなのか、チーム一丸となって生まれた曲の仕上げ、楽曲に命が吹き込まれ、呼吸しだすのは、歌手によるところが大きいと思う身としては、誤解を恐れずに言えば筒美氏本人の歌がダメだったことは幸いで、素晴らしい歌手との出会いによって、膨大な旋律を生み出す筒美氏の才能を研磨し、活かし続けるポイントだったのではないかと思うのです。また、年代毎に個性的で優れた作詞家と仕事を共になさっていることにも同じ様な事が言えるのではないかと思います(個人的には松本隆氏との共作は歌謡曲とニューミュージックという時代の主流を担うポップスの分岐点においても意味のあるものが多いと思っています)。

 

人生のある時期をもう一度照らすポップスの作用

80年代中期、バンド・ブームが到来し、90年代になると、自分の好きなものを自分で手掛ける人達が抬頭し、これをSSW(シンガーソングライター)と置き換えるには少々荒い見解とは思いますが(SSWというジャンルも60年代半ばのフォーク・シンガーから現在に至るまで内容の形態を変え、脈々と受け継がれていると思います)自ら作詞作曲を手掛け、アレンジも施すようになる音楽家が増えていく中で、プロデューサーに注目が集まるようにもなり、歌謡曲(流行歌)の制作に対する在り方は形を変え、J-Popというジャンルに変化していきます。名称は変われど、ポップスだけが持つ、時代との相性の良さ、一瞬で消費される儚いものであればあるほど大いに輝くことの出来る楽曲達に心踊らされた人は多いと思います。無論、私もその一人です。その曲を聴くと当時のアレコレを思い出す。自分の人生のある時期を炙り出し、もう一度照らしてくれる作用が音楽には、ポップスにはあると思うのです。筒美氏が後世に残して下さった音楽そのものに内包された知識と探究心の結晶による数々の旋律(メロディ)は、音楽の楽しさ、歌うことの気持ち良さを素直に感じさせてくれます。同時に、楽しさも気持ちよさも、作り手のしっかりとした裏地があることが前提なのだと気付かせてもくれます。

 

「SSWは芸術家、僕は職業作家だから」

また、「SSWは芸術家、僕は職業作家だから」と筒美氏は仰っています。

ひとくちに〈曲を作る〉と言っても、現代は個人で全てを兼ねられるくらいに機材も多種多様で、楽器が演奏出来なくとも誰でも曲を作れるという時代です。音楽の道を志すとしても、ヒット曲を作りたいのか、自分の求めるサウンドを探求し実験を繰り返していくのか、外に向けた意識と内に向かう自意識とのバランスが長けている音楽家というのは私自身、憧れる在り方でもありますが、エンターテイメントの世界に従事し、大衆に向け世の中の雰囲気を嗅ぎとりながら創作を続けるということの大変さと喜びは一体どういうものなのか、職業作家としてヒット曲を生み出し続けた筒美氏本人にしか解らないものではないかと思います。

アレンジを意識した作曲を試みる人、旋律は普通に聴こえながら実は難解だったりするコード進行による作曲を試みる人。また、何を使って作るのか、鍵盤、弦楽器、DTM……作曲と一口に言えども、その手法や方法は千差万別です。身体を使った〈声〉という緻密な楽器に旋律(メロディ)を託すということは、その旋律(メロディ)がシンプルであればある程、繊細であるべきだと私は考えます。また、それらを耳にする大衆とはある意味鋭い集団で、ダイレクトに心象に語りかけてくるようなものを理屈ではなく解っているのではないかと思います。リズムやアレンジ、旋律を小手先の手法だけで作り続けていても、そう言った音楽に対してはやはりそう簡単に食指を動かさないものです。大衆が楽曲を流行歌にしてくれる、ヒット曲に変えてくれるわけであり、移ろいやすく、決して掴むことの出来ない時代というものがどういうものなのか、可視化してくれる鏡のような存在であるのだと思います。ましてや心変わりの早い大衆に向けて、40年以上、職業作家としてヒット曲を作り活躍されていたのですから、その労力には目を見張るばかりです。