細野晴臣のアンビエント期を代表する名盤『MEDICINE COMPILATION』(93年)が、砂原良徳の手によってリマスタリングを施され、国内において初めてアナログ化された。本作のアナログ化は、近年再評価が進みつつある〈アンビエント期の細野晴臣〉の世界に深く潜り込むための、いいきっかけとなるだろう。
さて、本作を含む細野晴臣のアンビエント期は、一般に〈キャピタリズムやコマーシャリズムからの逃避〉という文脈で語られることが多い。実際、細野自身もインタビュー等において、度々そうした主旨の発言を残している。
それはたしかに一面的には正しいだろう。しかし細野自身の発言に裏付けられているからといって、それを100%真に受けるべきではない。というのも細野晴臣は、照れ隠しの音楽家であるからだ。照れ隠しの音楽家。そう、たしかに細野はいつも、まるで照れ隠しをするかのように、みずからの音楽家としての個性を何らかの要素で中和してきた。
ソロ活動初期のあいだ、彼の無垢にして真摯な音楽家としての顔の隠れ蓑となっていたのは、主にユーモアだった。ともすれば学術的でシリアスになりすぎてしまいそうな音楽的探究は、ユーモアの衣で包まれることで、〈風変わりでありながら親しみやすい音楽〉としてパッケージされた。トロピカル三部作においては、白スーツ姿で口髭を蓄えた謎の紳士=ハリー細野というキャラクターもまた、細野の照れ隠しに一役買ったことだろう。
さて、ソロ活動からYMOの活動へと移行するにあたり、ユーモアに代わって主だった隠れ蓑となるのは、匿名性……のはずだった。しかし匿名的なユニットを目指して結成されたYMOは、成功によって皮肉にも細野(および他メンバー)の記名性を高めてしまった。そのことに起因する疲弊が、後のアンビエントへの沈潜の一つのきっかけにもなったと思われる。
YMOの活動において挫折した、真の匿名性の獲得。細野がアンビエントを志向する上で念頭に置いていたのは、まさにこのことではないか? そしてこの時期の細野の背景にあったのは、みずからの音楽性がどうしようもなくポップで人懐っこいこと(それは資本主義システムの下においては、消費の対象となることを意味する)への恥じらいであったと言えるかもしれない。
だが照れ隠しは、全否定とは違う。それが装いの裏側に隠しているのは、むしろ肯定性である。実際、細野のアンビエント期を代表する作品である本作『MEDICINE COMPILATION』も、茫漠とした音像の背後にポップな素顔をたしかに覗かせている。
極上のバレアリック・サウンドに仕上げられた、『トロピカルダンディー』(75年)収録曲“HONEY MOON”のリメイク・ヴァージョン(コーラスは矢野顕子!)は、その最も直接的な表れと言えるが、表立ってポップであることを志向していない他の曲においても、やはり隠しきれないポップさが顔を出している。そこに見られるのは、YMO時代の同胞・坂本龍一の近年の活動において顕著な〈ポップであることの意図的な拒絶〉の態度ではない。
飄々としたとぼけたユーモアと揺蕩うような妖しい音像、そして人懐っこい歌心の混交。本作におけるその奇妙なミクスチャーを可能にしたのは、細野の江戸っ子的シャイネスなのかもしれない。もしこれを本人に伝えたとしたら、照れ笑いを浮かべながら「そんなにたいそうなことは考えちゃいないよ」と否定するかもしれない。なにしろ彼は〈生っ粋の東京シャイネス・ボーイ〉であるから。