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ただ現在という日常を生きていたパティ・スミスというひと

 初めて彼女の音楽を聴いたのは80年代初頭の中学生のころだった。すでに彼女は一時引退していて、レコードは廃盤状態だった。かつて彼女の恋人であったトム・ヴァーラインのバンド、テレビジョンは知っていたし、レコードも擦り切れるほど聴いたものだが、当時パティ・スミスのレコードは手に入らなかったのだ。そんな時期、坂本龍一のラジオで“Poppies”(2ndアルバム『Radio Ethiopia』所収)がオンエアされた。それは、パンクというよりは、ゆったりとサイケデリックにうねる、醒めた高揚感のようなものを感じる曲だった。おなじころ、ラジオのニューヨーク・パンク特集で、“Gloria”(1stアルバム『Horses』所収)を聴いたのだと思う。周知のとおり、それは北アイルランドのバンド、ゼムが1964年にリリースした曲である。すでにゼムのオリジナルは聴いていたし、ドアーズのカヴァーも聴いていた。しかし、ラジオから流れたそれは、以前に聴いたことのあるそれらのヴァージョンのどれとも異なっていた。曲の前半は彼女による詩を追加して歌われている。それはゆっくりと静かにピアノの伴奏で歌いだされる。〈イエス・キリストが死んだのは誰かの罪のためであって私のではない〉という一行が、ファースト・アルバムの一曲目に、アーティストの第一声として収録されていることのインパクトがどれだけのものであるのか、私には知ることはできない。前半から後半へ、曲は静から動へとスピードアップし、彼女のヴォーカルもヒートアップしていく(そして、そのままフェードアウトする)。

 2009年7月、渋谷のとあるホテルのスイートルームで、私は彼女と映画監督のスティーヴン・セブリングと対面していた。彼女のドキュメンタリー映画「パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ」のプロモーションのために来日した彼らにインタビューする機会を得たためだった。10代のころから聴き続けてきたミュージシャンに、それから30年近い時間をへて直接話をすることが(通訳を通してだったけれど)できるなんて、月並みな言い方だが、中学生の自分に教えてやったらどれだけ驚くことだろう。私は、彼女が74年にリリースしたデビュー・シングル『Hey Joe / Piss Factory』を持参した。それを一瞥した彼女は「これはブート(海賊版)ね」と言った。しかし、嫌な顔ひとつせず、彼女はレーベルにサインをしてくれた。そのシングルはしばらく部屋にかざってあったのだが、2年後の東日本大震災で落下し真っ二つに割れてしまった。

 インタビューで、この11年におよぶ撮影と1年の編集期間をへて映画を完成した彼女は、しかし、過去を見せるようなドキュメンタリーには興味がなかったと言った。記録された映像は過去に属するものではないのか、と思われたがそうではなかった。そこには11年間におよぶ現在の様子が、現在の連なりが、ただ記録されていたのだった。自分はつねにただ現在を生きているのであって、この先何が起きて、どうなるかを予見できる人はいない。映画に映るそれぞれの時間の彼女もまた、時をへて完成された映画のことなど、なにも知る由もないし、そんなことは考えもせず、ただ現在という日常を生きていたにすぎなかっただろう。