フィリップ・グラス、パティ・スミスとの共演で11年ぶりの来日!
村上春樹、柴田元幸の新訳で没後20年のギンズバーグへオマージュを捧げる

アメリカの没落/は 天国から予告されている//99人の制服の兵士は政府から給料をもらって/信じることを強要される(鉄の馬――ヤリタミサコ訳)

ヤーウェは原子爆弾を持っている/アラーは異教徒の喉を搔き切る/ヤーウェの軍隊は隣人部族を攻撃する/紅海はアラーの軍隊を封じ込めて水攻めするのだろうか(ヤーウェとアラーの闘い――ヤリタミサコ訳)

   こんなことばが書かれていた。

   知っているだろうか?

   すっと、ことばがからだにはいってこないか?

 書かれたのは前世紀の、20世紀の半ば。いまから50年、60年経っている。でも、どうだ、これはリアリティがないか? まんまじゃん、とおもわないか? まんま、そのとおり、これだけ時間が経ったのに変わらない。それって、どうよ?

 書いたのはアレン・ギンズバーグ。「ビート・ジェネレーション」を代表する詩人だ。ビートは、熱狂されたり遠ざけられたり、けっこう時代によって温度差が違った。読む側、受けとる側がどんな状態なのかが、大きく作用する。そこが、たとえば「文学」とか「文学史」とかに容易におさまらないところだ。まだ生きているからだ。詩なんか読んだりしない。読む機会だってない。でも、ことばは、でも、こうやってちゃんとあって、それが自分のなかで“ひびく”としたら、ことばは、詩は、まだ生きているし、あなたもまた、生きている。“ここ”で生きている。

 ギンズバーグは朗読の名手だった。詩を文字として読むことが多くなってきた時代に、大きな声で、いろいろなところで声にだした。いや、いろいろなところで詩は声にだされ詠まれてはいた。でも、少人数のサークルで、声の届く範囲で、だった。それを、大勢を前に、機会があれば、どこにでも行って、詠んだ。理解者だけじゃなく、理解してくれなくても、ともかく発すること、いま、こうなんだ、ということを、声にした。それがギンズバーグだ。

 誰だって、ギンズバーグの詩を、いや、誰の詩だっていい、詠むことはできる。誰だって、詩をたちあげることはできる。でも、そのときにおよぼす力には差がある。声そのものの、声を発するものの深度が、広がりが差を生みだす。

 いま、誰が、英語で、もっともつよい表現を声でもたらすことができるのか。知っている人たちをかたっぱしから想像してみるといい。誰がいる? 俳優を、歌手を、ラッパーを、政治家をおもいうかべてみればいい。表現、ex-pression、外に押しだす、こと。押しだすものがなければ、それはただ空虚な身ぶりでしかない。