NONA REEVESのギタリストであり、レキシ、堂島孝平、一十三十一、BONNIE PINKなど数々のサポートでも活躍する奥田健介が、ZEUS(ゼウス)なる名義でソロ・プロジェクトを立ち上げた。手始めとして、昨年9月にBONIIE PINKをフィーチャーした“Little Bit Better”と、自身がヴォーカルをとった“ホライズン”の2曲を配信。さらに、一十三十一をフィーチャーした11月の“それは、ウェンズデー”を経て、ソロ始動をアナウンスした際から予告されていたアルバムが、このたび2021年4月7日(水)についにリリースされる。これまでNONA REEVESや他のアーティストへの提供楽曲でうかがわせてきたものだけにとどまらない、むしろ原体験にまでさかのぼる音楽的ルーツと、表立った活動の裏側でアップデートされていたソングライティング・センスとメロウ・マインドを思う存分広げてみせたと思わせる奥行きの深さを感じさせる本作『ZEUS』。彼の音楽偏愛歴をたどりながら、その真髄に迫ってみたい。
奥田健介の音楽偏愛歴
──初めてのソロ・アルバムということで、過去から現在に至るまで奥田さんが眺めてきた音楽的風景があれこれとうかがえる内容になったんじゃないかと思います。制作に入る時は、どんな意気込みだったんでしょう。
「やはりその、コンセプトを考え出したら一生完成しないと思ったんですよね。本当に個人的なものにすることもできるし、完全にギター・インストだけの作品にすることもできるし……なので、とりあえず出来た順番に発表しようみたいな気持ちで。統一感っていうのは後からついてくるものだろうし、同じ人間が発信しているものだから、矛盾したものはそう出て来ないだろうっていう、それぐらい楽観的な感じでした。結果的にとっ散らかったものが出来上がったという気はしないし、こういうふうにしかならないというかね」
──こういう機会なので、奥田さんの音楽的な偏愛歴をあらためて伺いたいなと思うんですが。
「小さい頃にクラシック・ピアノを習っていて、そこでまあ、ある程度メロディーだったりハーモニーだったりみたいなものの感覚をつかんでいたんですけど、小学校5年の時に心臓の手術をして1か月ぐらい入院した時、親がチェッカーズと安全地帯とサザンオールスターズのカセットテープを買ってくれて。それを毎日ベッドで聴いて、そこから歌謡曲熱が始まった感じですね。曲を聴きながらピアノを、とりあえずメロディーを右手で弾いてみて、左手でベースを探すっていうことをやりながら耳コピしてました」
──自分で再現するということを早いうちからやってたわけですね。
「右手だけだと物足りないなと思って、左手って何をやるんだろうと思った時に、ベースを弾くと大体の曲がそれっぽく聞こえるという、左手の存在というのにわりと早く気がついたというか、偶然意識が行ったんです。とにかくベースが好きだったんですよね。低い音が好き。高い音と低い音を最初に探して、最後に真ん中を探すみたいな。結果、今でもそういう聴き方をしているところがありますね」
──バンドに興味を持つのはいつ頃からだったんですか。今名前が出てきたチェッカーズやサザンは楽器パートも多いですし、安全地帯は上手すぎる。バンドではあるけど、中高生が〈バンドやろうぜ!〉という衝動にはなかなかなりにくいですよね。
「中1ぐらいでエレキ・ギターを買ってもらって、その時はもう、バンドやりたいっていう一心で。サザンとかのあとにRCサクセションが好きになったんですけど、サザンとはまた違うベクトル、鋭角的なものを感じたんですよね。ファッションもパンキッシュだったし、(忌野)清志郎さんがもっているR&B色、オーティス・レディングみたいな部分よりもジョン・ライドンのような攻撃的なものを感じて、そこがかっこいいなと。で、中学の時はメンバーが揃わなくてバンドを組めず、もっぱら家で練習している感じだったんですけど、高校に入ったと同時にバンドを組んで」
──ギターを持つきっかけがそのあたりの音楽からの影響だったわけですね。
「それもありますが、ピアノはちょっと軟弱というか、高学年になると馬鹿にされがちだから(笑)。あとは、スポーツ全般がすごく苦手で、スポーツ以外で何かアグレッシヴさを、ひいては女の子にアピールできるものはないかなって思った時に、ギターしかないかなって(笑)。それもやっぱりエレキ・ギター。正直、曲の中でどの音がエレキ・ギターかっていうのもあまりよくわかってなかったんですけど、その頃は。
それでまあ、最初に買ってもらったのが、ヤマハのストラト・タイプで、黒と白のパッパラー河合モデル。田舎の楽器屋さんだったから、それぐらいしかエレキを置いてなくて(笑)。それを高2ぐらいまで使っていて、でも、パンク・バンドみたいなことをやってたから、もっとガツンとした音のやつが欲しいなと思って、オーヴィル・バイ・ギブソン(Orville by Gibson)のレスポールを買ってもらいました。それでセックス・ピストルズのコピー・バンドとかをやってたんですけど、レスポールって重いから、学校に置いていきがちになって、部室に置いたまま修学旅行に行ったら盗まれてたんですよ。だいたい犯人の目星はついてたんですけど、置いていったオレも悪いかなと思って、それ以来レスポールはトラウマというか、何か悪いことが起こるんじゃないかと思って使ってないですね(笑)」
──レパートリーは主にパンク・ロックが多かった?
「ザ・スターリンとかクラッシュとか、THE BLUE HEARTSもやってたし、それと、オールド・ロックというか、ドアーズとかをやるバンドでも弾いてましたね。わりと雑食な感じでした。ほかにもローザ・ルクセンブルグとか、ひとくちにいえば、『宝島』のなかにあるレンジ感。藤原ヒロシと高木完の連載もあったし、フリッパーズ・ギターもね、そこで知ったみたいな」
NONA REEVESにおける役割
──NONA REEVESに参加するのは96年、大学の時になりますか。
「高校の時に、スライ&ザ・ファミリー・ストーンとかジェイムズ・ブラウンぐらいまでは聴いてたんですよ、黒人音楽は。で、もうちょっとその、モータウンだったりフィリー・ソウルみたいな流麗な世界は、大学に入ってから。〈Suburbia Suite(サバービア・スイート)〉とか〈Free Soul(フリー・ソウル)〉なんかの洗礼も受けてて、渋谷に行ったら5、6件レコード屋をまわって帰るみたいなことを週に3回ぐらいやってたかな。それが普通だと思ってましたね」
──曲作りはするのはいつ頃から?
「ノーナではずっと〈共作イスト〉だったんですよね。作曲の手助けというか、(西寺)郷太が書いてきたメロディーにコードをつけたり、そういう係を長年やっていて、もちろん僕が持ち込んだものもあったんですけど、役割としてはモチーフに対して色付けする感じがメインでした。作曲を本格的にやりはじめたのは、ノーナでというよりも、土岐麻子さんに曲を書いたのが……もう15年ぐらい前かな。“ウィークエンドの手品”※っていう曲が最初で、そのあとも一時期よく書いてて」
※土岐麻子の2005年作『Debut』収録
──2000年代の後半は南波志帆さんや坂本真綾さんにも。
「その頃はわりかしコンスタントに書いていた印象がありますね。ノーナの作品もコンスタントに出していたんですけど、3人とも外仕事が増えてきて、いろいろやり始めた頃で。僕もサポート・ギターをやったり、作曲の依頼も受けてみようかっていう。ノーナがビルボードに移籍したあたり(2013年)からはノーナに対して曲を出すようになって、その割合もどんどん増えてきて」
──西寺さんがメインのソングライターで、奥田さんがサブっていうこともなく。
「曲数はともかく、意識のなかではサブっていう気持ちでやってはいないですね。お互い、ちょっとしたライバル関係でもあるというか、作曲ということでは」
──お互い刺激し合うところもあったでしょうし。
「得意分野も違いますしね。絵に喩えたら、自分でこれは緑色と思っていても、もっと濃い緑にしないと緑だと思ってもらえないとか、これちょっと派手だなと思ったら、まわりからしたら地味だったとか、他人からどう見えてるかは家にこもって作ってるだけだとあまり分からないですよね。やっぱりそれを人に聴かせて、お客さんとかメンバーの反応を聞いて初めて〈あっ、こういう絵だったんだ〉ってわかるところもある。やっぱ、発表してなんぼだなって。家で断片をたくさん作ることは前からやっていたんですけど、そうじゃなくて、出して初めて曲になるというか、ビルボードに移籍したぐらいからそんな感じになってきて、曲出しミーティングがあったら必ず2、3曲はもっていくようにして。そしたら郷太も〈なにっ!〉ってたくさんもってくるようになって、ある種健康的なバンドになるという(笑)」