昨年末、79年発売の松原みき“真夜中のドア〜stay with me”がSpotifyのグローバルバイラルチャートで18日連続世界1位を記録したことで、今なおネット上にはその現象の要因を追う記事が溢れ、テレビで取り上げられるまでに至っている。

そんな中、“真夜中のドア”の作曲および編曲者である林哲司のコンピレーション・アルバム『林 哲司 melody collection』がタワーレコード企画によってレコード会社3社から各2枚組、計100曲を超える大ボリュームで順次発売される。作品集となると2001年に発売された『林哲司ソングブック ~Hits & Rare Tracks~』(すでに廃盤)以来ちょうど20年ぶりとなるが、今回特筆すべきは〈グルーヴ〉を基準に選曲されている点で、今では入手困難になってしまっている楽曲から、シティ・ポップ界隈でじわじわと注目を集めている楽曲まで、往年のファンをも唸らせる〈意外な〉収録曲群となっている。

現在のシティ・ポップ・ムーブメントについて、各メディアから取材やコメントを求められることが増えたであろう林哲司に、あらためてシティ・ポップについて、そして今回のコンピレーション盤についてじっくりと話を訊いた。

 

シティ・ポップとシティ・ポップス――林哲司が考えるリバイバルの背景

――今、巷で騒がれているシティ・ポップですが、この状況をどう見ていますか?

「まずはシティ・ポップっていう名称自体ですけど、〈ス〉が付くか付かないかで意味合いが違うんですよね」

――当時のレコード帯などで見かけるのは〈シティ・ポップス〉の方ですよね。

「そう。70年代後半から80年代にかけてあったのは〈シティ・ポップス〉で、その後J-Popっていう言葉が出てきたことで〈ポップ〉っていう言い方が定着しましたけど、70年代当時はポピュラー・ミュージックのことを一般的に〈ポップス〉と言っていたので、その〈ス〉があるかないかだけで時代性まで表している気がします。

とはいえ、当時はAORとかソフト&メロウ、アーバン・ミュージック、あるいはシティ=都会ではなくリゾート・ミュージックとかの方が使われていましたけどね。2000年ごろはソフト・ロックって言われていましたし。まぁ、いまだに何をもってシティ・ポップとするのか、いい意味でも悪い意味でも曖昧じゃないですか」

――林さんが近年のシティ・ポップ・ブームを最初に認知したのっていつ頃なんでしょう?

「SONG FILE LIVEのメンバーから“真夜中のドア”のYouTube再生数がすごいことになってるっていうのを聞いて〈なんで?〉って思ったのが最初かなと思います。3〜4年前ですね」

『林 哲司 melody collection 1977-2015』(ポニーキャニオン盤)収録曲 松原みき“真夜中のドア〜stay with me”

――なるほど。そしてその後の2020年秋から冬にかけてストリーミングですごい再生回数を叩き出すわけですが、まず率直なところでどう思われたのでしょうか?

「その時もまずは〈なんで?〉です。でもそれから、性分というか、プロデュースもやってる身としてはその理由を分析したくなるわけですが、ライターの人が書いたネット・ニュース記事とかをいくつか読んでもなんかしっくりこないなっていうのがあってね。ひとつひとつの評論は当たってはいるんだけど、それだけではない複雑な構図が僕の中で見えてくるようになったところはあります」

――その部分、お聞かせいただけますか?

「41年前の歌謡曲全盛の時代にこの曲を支持してくれた人たちがまずいて、その後、僕が受けるインタビューでは必ずと言っていいほど最初のヒット曲としてこの曲について訊かれるわけです。そういう意味では、その土壌はベースとしてずっとあったのかなと。

そこにキッカケの元素としてDJたちが焼き直したり引用したりっていうことが入り込んで、インターネットの発達がYouTubeに繋がり、ストリーミングという音楽の聴き方の変化を経て、Rainychのカバーでダメ押ししたというふうに今は考えています。もちろんRainych以降に初めてこの曲を知った人たちって絶対数としてたくさんいるんでしょうけど」

『林 哲司 melody collection 1979-2020』(ソニー盤)収録曲Rainych“真夜中のドア〜stay with me”