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インタビュー

クリスチャン・マークレー(Christian Marclay)に恩田晃が聞く音楽とアートの関係

〈クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]〉

クリスチャン・マークレーに、恩田晃が聞く
音楽とアートの関係

 クリスチャン・マークレーに会ったのは90年代半ば、私がニューヨークに足繁く通い始めた頃だった。その前からリリースされたレコードはすべて聴いていたのだが、ダウンタウンの〈ルーレット〉で初めて演奏に接した時は驚いた。旧式のターンテーブルを何台も使って、手荒くレコードをさばいていくと、針飛びしたループや細切れのコラージュが矢継ぎ早に飛び出してくる。彼は口数が少なく物静かなタイプなのだが、動物的で獰猛な手さばきに、唖然としたのを覚えている。その日は、DJオリーブ、カジワラ・トシオらもソロで演奏し、ターンテーブルという〈楽器〉の可能性に焦点を当てていた。私は80年代後半からカセットのフィールドレコーディングを録りためてきたのだが、ウォークマンを使ってそれらをどう演奏するかのヒントを得た貴重な一夜だった。

 それ以降、マークレーの仕事は、美術作家のものであれ、音楽家のものであれ、できるだけフォローしてきた。彼は、過去40年に渡り、ヴィジュアルアートと音楽の両方の分野で活躍し、視覚と聴覚が交わる領域で可能性を切り開いてきた。明解なコンセプトで、明快な作品を造り出す印象がある。だが、よく考えてみると、それらはどの美術の潮流にも乗り切らない、フルクサスでも、サウンドアートでもなく、かなり異色。 何処からやってきたものなのか、いい当てることは難しい。そんなマークレーの、日本では初となる大規模な個展が東京都現代美術館で開催されている。〈トランスレーティング[翻訳する]〉をテーマに旧作から新作までを集めたこの展覧会では、これまでの彼の活動の一端を知ることができる。来日した本人に、1970年代のボストンでの音楽との出会いから、その後のニューヨークのアートシーンや、最近の活動について話を聞いた。

 マークレーはスイス、次いでボストンとニューヨークで、ヴィジュアルアートを学びながら、次第に音楽に興味を持つようになる。スイスで過ごした10代の頃は寄宿生だったため、音楽に触れる機会がなく、録音された音楽すらほとんど聴いていなかった。その後、ボストン、ニューヨークへ移ったことで、ようやく生の音楽と出会った。当時のボストンの音楽シーンをこう振り返る。

 「ボストンには面白い音楽シーンがたくさんありました。たとえばミッション・オブ・バーマ、それにバウンド・アンド・ギャグドという面白いガールズ・バンド。メンバーは私が在籍していた美大の学生たちでした。週末になるとよくニューヨークにも出掛けていったりしたのですが、当時はより実験的な音楽を聴いていました。フレッド・フリスのテーブルトップ・ギターを聴いたのが、私にとってはとても重要な体験でした。DNAも衝撃的でした。大音量であることも、過剰な身体性も気に入りました。観客も少なく、ミュージシャンとの距離が非常に近いのもよかった。こんな音楽が存在するなんて考えても見なかったので、まるで平衡感覚を失ったかのようでした」

 その後、マサチューセッツ州の美大から、1年間の交換学生として派遣されたニューヨークのクーパー・ユニオンでは、ほとんどの時間をクラブ通いと、音楽を聴くことに費やしたという。そして再びボストンに戻ってからはフェスティヴァルを開催したりもしていた。

 「DNA、Z’ev、リース・チャタムなどのミュージシャンだけでなく、ジャック・スミスやダン・グラハムといったパフォーマーやアーティストたちも招待しました。パフォーマンス・アートやパンクロックの境界に渦巻くエネルギーに関心があったんです。『ノー・ ニューヨーク』(1978)以降のノー・ウェイブのバンドやそういうタイプの音楽と同様、ヴィト・アコンチらに関心がありました」

 次第に彼はターンテーブル奏者として知られるようになるわけだが、〈DJ〉としてはずいぶん風変わりで、ヒップホップDJともまるで違う。強いて言うならば、ジョン・ケージのターンテーブルの使い方やフルクサスのアイデアにはやや近いかもしれない。ナム・ジュン・パイク、ジョー・ジョーンズ、ミラン・ニザックなど、フルクサスにはサウンドをメディウムとして使うアーティストが多かったが、それでも彼はどのカテゴリーにも当てはまらない。それには、自分が音楽教育を受けていなかったことが大きいとマークレーは言う。

 「サウンドを使ったフルクサスのアーティストの多くは(たとえばナム・ジュン・パイクでさえ)音楽をきちんと学んでいました。彼らには知識がありました。でも私はもっとパンクです。楽器の演奏も、楽譜を読むこともできませんでした。その上、ヴィジュアル・アーティストとして教育を受けていたこともあり、どう転んでも、既存のカテゴリーに収まり切らなかったのだと思います。だから自分にあった受け皿を自分で発明しなければならなかったのです。それは受け皿というより、魚を捕獲する網みたいなものだったかもしれませんが」

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