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〈反解釈1〉

〈○○に似ている〉という印象論は不毛

ただしあらためて聴感上の印象を振り返ると、M-Baseの音楽のエッセンスを――おそらくヴィジェイ・アイヤー経由で――吸収したスティーヴ・リーマンのモダンなアーキテクチャに近かったようにも思う。それはオクテット編成で、ビブラフォンの金属的な響きが特徴的だということもあるのかもしれない。

バスクラリネットに着目するなら晩年のエリック・ドルフィーを引き合いに出すこともできる。ただ、このように〈○○に似ている〉という話を印象論で自由連想的に続けることは不毛だ。ネット上の感想を眺めてみると、ライブ帰りのオーディエンスたちが思い思いのミュージシャン名を挙げていた。けれどスティーヴ・リーマンの名前は一つもなく、M-Base派もほとんど言及されていなかった。

ジャズが多様化/細分化した現在、〈○○に似ている〉という指摘は、スタイルの類似や影響関係というより、リスナーの個別的で有限な聴取経験の披瀝が大半を占めるようになっている。一昔前であれば、たとえば〈バードに似ている〉と指摘することは、チャーリー・パーカーのバップフレーズをスタイルとして取り入れていることを明確に意味していた。

(その意味で「AA 五十年後のアルバート・アイラー」収録の大谷能生との対談で、菊地が〈音楽におけるコスプレ概念〉を議論の俎上に載せていることは示唆的である。コスプレをするためには印象ではなく具体的にスタイルを模すことが必要だから)。

 

〈反解釈1〉

〈曲名を明かさないスタンス〉が証明する独自のアンサンブル

M-Base派とは異なる点も多々ある。たとえば痙攣的でありながらときにはロック~プログレにも通じる重たいビート。あるいは官能的なメロディーとハーモニー。ラディカルな意志のスタイルズは曲名を明かさないスタンスを取っているが、〈反解釈1〉では唯一、ラストで演奏するのが“回復せよ”という曲名であることがアナウンスされた。“回復せよ”で聴かせるリリシズムと官能美はM-Base派には見られない。ROMANTIC BABALÚの萩谷嘉秋をボーカルでフィーチャーした“Beat It”のカバーもしかり。

マイケル・ジャクソンの82年作『Thriller』収録曲“Beat It”

いま〈曲名を明かさないスタンス〉であると書いた。実際にライブではMCをほとんど挟まず、シームレスに演奏がひたすら続く。ときおり菊地流の小話でフロアを温めることはあるが、曲紹介ではない。だから、曲と曲の切れ目も曖昧だ。どこで終わるかもわからない。曲中のブレイク部分で思わず拍手してしまったオーディエンスもいた。

〈反解釈1〉

わたしはよくフリーインプロビゼーションのライブを観にいくので、むしろ曲名不詳の演奏を聴くことの方が多いのだが、それはともかく、ある演奏が特定の曲であると認識するためには何らかの同一性を聴き取る必要がある。当たり前と言えば当たり前の話だが、たとえばオリジナル曲かカバー曲かをアナウンスなしで判別するためには、事前にそれらの音を聴いたことがなければならない。

ラディカルな意志のスタイルズのライブでは、立花ハジメの“H (Theme From Clubfoot)”もカバーしていた。特にアナウンスをしていないので、知らずにオリジナル曲として聴いてしまったオーディエンスもいたはずだ。裏を返すと、カバー曲を織り交ぜても違和感がないほど、すでにバンドに独自なアンサンブルサウンドが出来上がっているということでもある。立花の“H (Theme From Clubfoot)”はストレンジなパンクジャズ風だが、〈反解釈〉ではスティーヴ・コールマンの曲と並んでもすんなり聴けてしまう。

立花ハジメの82年作『H』収録曲“H (Theme From Clubfoot)”。クラブ・フット・オーケストラ“Theme From Club Foot”のカバー。クラブ・フット・オーケストラはリチャード・マリオットを中心にしたバンドで、サイレント映画に音楽をつけるパフォーマンスなどを行っていた

 

〈反解釈1〉

省略=解釈=翻訳を禁ずる

ライヴでは“省略を禁ずる”と題した曲も演奏された。楽屋裏の会話のような録音を流し、エルメート・パスコアール――今はシャソールの名前を出した方がわかりやすいだろうか――よろしく発語に合わせたビートを再生すると、長い言葉を省略する行為は、まずは生理的に、次に倫理的に、そして法的に禁止される――そのようなテーマで、今度は菊地がテキストリーディングをしつつ、その場でバンドメンバーが即興的に絡み合っていく。 

〈反解釈1〉

〈省略を禁ずる〉ことは、〈曲名を明かさないスタンス〉と相通じている。曲名とは音を省略して言葉に変換し、他人と共有することができるツールでもあるからだ。反対に言うと、曲名がないとその曲について誰かに伝えることには大きな困難が伴う。楽曲の形をできるだけ忠実に言葉へと翻訳しなければならない。もしくは、音を直接聴いてもらうしかない。

ある音の組織的なまとまりに曲名を付すことは、省略行為であると同時に、一種の翻訳行為でもある。曲名が付されることによって、音そのものとは別の意味作用が生じる。だからそれは解釈することを呼び込む。そこで生じた意味を解釈することもまた、一種の翻訳行為である。解釈の仕事が翻訳の仕事と実際には等しいものになる、と指摘したのはほかでもなくスーザン・ソンタグだった。