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 ひとつ逸話をお聞かせしましょう、とケラスは言って、ニューヨークで2019年にバッハの組曲演奏会を行い、尊敬する師のティモシー・エディが聴きにきてくれたときの話を続けた。

 「その日の演奏でも、即興の瞬間をたくさん生み出し、自分が非常に自由だと感じていました。かつての師は厳格な人ですから、〈少し自由すぎたでしょうか、行き過ぎでしたか?〉と私は言いました。〈まったくそんなことはない。俳優が完全に役に入り込むとき、自由に制限はない。それはその役柄が冒す自由であり、人物にまったき生命を吹き込むものだから〉と彼は言ってくれた。〈演奏している作品そのものになりきるときに、きみが感じることは、バッハがそこで考えたハーモニーを感じるように、その音楽を経験することなのだと。バッハの宇宙を完全に受け容れることは、そのように自分がそれを経験することだ〉と。この考えは、私にはとても啓発的なものでした」

 2019年と言えば、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのダンス・カンパニー、ローザスとともに舞台を創り上げて以後のことである。ケースマイケルは殊に対位法的な構成を好む振付家だが、それでもケラス自身とバッハの対話と合一のほかに、他者の肉体が同じステージで踊っているのは不思議な感覚を帯びる体験ではなかったろうか。

 「2017年に通し稽古を始めた当初は、少々不安に思いました。しかし、徐々にそれを受け容れ、ありがたく思うようになった。私は揺さぶられることが好きなのですよ、そうしてまったく新しい光に爆さらされ、安全な領域を出ることが。

 アンヌ・テレサはまず〈この音楽はあなたにとってどのような意味があるのか、どのようにこの音楽が作曲され、どのように作品に反応して生命を吹き込んでいくのか〉と私にたずね、それをベースに作品を創っていく。だから、ダンス全体が、私がどのように演奏するかということと密接にリンクしている。ローザスとの舞台では、私たちは完全に応答し合い、相互に即興の余地があります」

 かくして2023年10月、ジャン=ギアン・ケラスはひとり、バッハの無伴奏組曲の全曲録音に臨むことになった。2007年3月以来の同曲再レコーディングである。

 「新たにバッハを録音したいというこの衝動は、ローザスとのコラボレーションに鼓舞されてのものです。舞台の上で感じた自由や、バッハと一体になった瞬間に起こっていることを、いかにしてマイクロフォンの前で録音し、CDに刻印させる行為と和解させられるかについては、私もまだ解決索を見出せてはいません。こうしてお話ししたことで、来たるべきレコーディングのときに私がなにを優先すべきかを思い出せるでしょう」

 


ジャン=ギアン・ケラス(Jean-Guihen Queyras)
モントリオール生まれ。リヨン国立高等音楽院、フライブルク音楽大学、ジュリアード音楽院でチェロを学ぶ。1990年より2001年までアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・チェロ奏者を務め、02年にはグレン・グールド賞を受賞したブーレーズの選考により、傑出して有望な若手芸術家に対して贈られるグレン・グールド・プロテジェ賞を受賞。レパートリーはバロックから現代まで多岐にわたり、ウィーン楽友協会、コンセルトヘボウ、ウィグモアホール、カーネギーホール等、欧米の著名コンサートホールの多くでリサイタルを行っている。また、フィルハーモニア管、パリ管、チューリッヒ・トーンハレ管、N響、読響、都響をはじめとするオーケストラと共演。これまでに、ドヴォルザーク、エルガー等のチェロ協奏曲、バッハおよびブリテンの無伴奏チェロ組曲をはじめとする室内楽のCDをリリース、数々の賞を受賞。ドイツ・フライブルク音楽大学教授。

 


寄稿者プロフィール
青澤隆明(あおさわ・たかあきら)

1970年、東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。音楽評論、エッセイ、プログラム・ノート、インタヴューなどを執筆、多様なコンサートの企画制作、放送番組の構成も行う。主な著書に「現代のピアニスト30—アリアと変奏」(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの「ピアニストは語る」(講談社現代新書)、「ピアニストを生きる—清水和音の思想」(音楽之友社)。

 


INFORMATION
『シューマン:ピアノ四重奏&五重奏曲』今秋リリース予定

イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)/アンネ・カタリーナ・シュライバー(ヴァイオリン)/アントワン・タメスティ(ヴィオラ)/アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)